怪我をした時にその原因や治療方法を知ることは大事ですが、それだけで十分でしょうか?
もちろんそれも重要ですが、「心」の側面を無視することはできません。怪我をしている間どんな風に心を整え、焦る気持ちや不安な気持ちと向き合うかはとても大切なことです。こればかりは教科書的に何かを語ることはできないですし、そうすることが良いとも思っていません。それよりも、実際に怪我をした時に自分の気持ちをどう作って、心をどう整えていったかの実体験を聞くことに大切なエッセンスが詰まっている気がします。
日本のトップで戦ってきた方たちに怪我のエピソードを語ってもらうコラムはそんな経緯からスタートしました。リアルな話から伝わるものは今怪我をしている人はもちろん、そうじゃない人にも響くものがあるんじゃないかなと思ってます。初回は西田隆維(にしだたかゆき)さんにお話を伺いました。どうぞ、ご覧ください。
西田 隆維(にしだ たかゆき)プロフィール
栃木県足利市出身
足利北中学ー佐野日大高校ー駒澤大学ーSB食品ーJALグランドサービス
足利市北中学時代に陸上競技を始める。中学3年生の秋に3000mで8分台に突入し、佐野日大高校へ進学。高校1年生の頃からチームの主力として活躍するも、インターハイは予選落ち。全国高校駅伝も上位入賞できず、全国的には決して有名な選手とはいえなかった。大学入学後からメキメキと力をつけてチームの中心メンバーへと成長。箱根駅伝では大学4年生の時に駒澤大学を初優勝に導く。卒業後はSB食品にて競技を続け、2001年の別府大分毎日マラソンで優勝(2時間8分45秒)。エドモントン世界選手権のマラソン代表に選ばれて9位となる。実業団時代はアキレス腱の痛みに悩まされ、2009年に現役引退。現在は一般社団法人シャイニングに所属し、健康スポーツイベントの企画やゲストランナーとして各地のマラソン大会に参加したりすることを中心に活動。
山に囲まれて生活したジュニア時代
ー西田さんは栃木県の足利市ご出身なんですね。
足利市は栃木県の南西部に位置する市で、45%が森林に覆われてます。自宅の周りも山ばかりという環境で生まれ育ちました。僕は足利北中学で陸上を始めたのですが、もともと足が速かったわけでもなく、中学1年生の頃は市の大会で入賞するのがやっとのレベルでした。ただ、地元は右を見ても左を見ても山ばかりだったので、自然と脚力ついていったんだと思います。記録は順調に伸びて中学3年生の秋に3000mで8分台に突入。全国大会には出られませんでしたが、記録が伸びていく感覚がすごく楽しかったです。秋に出した記録のおかげで高校の進学も早い段階で決まったのですが、頑張りすぎたんですかね。高校に入る前に友人と自主的にいろんなレースに出ていたら右のスネ辺りが痛くなってしまいました。たまらず病院で診てもらったら疲労骨折。僕にとっては初めての大きな怪我でしたね。満を辞してスタートするはずだった高校生活は怪我から始まりました。
ーいきなり怪我とは大変でしたね。
なかなか人生思うようにいかないですよ(苦笑)痛みが落ち着いてもすぐに練習には合流できなかったので、それならということで自宅から高校まで歩いて通学することにしました。高校があった隣の佐野市までは山を二つ越えなければいけないので、歩くと2時間かかる通学路。毎朝5時半に家を出て歩く、部活が終わったら来た道をまた歩いて帰る。結果的にはこれがよかったんでしょうね。練習に復帰するまで4ヶ月ほどかかりましたが、たっぷり歩いていたので土台はしっかりできたと思います。ちなみに、往復4時間の通学を見込まれて(?)高校のデビュー戦は「競歩」でした。もしそこで上位入賞などしてたら箱根駅伝もマラソンも走らず競歩の選手になってたかもしれませんね〜。
ー練習に合流して走り出したのはいつ頃からなんですか?
6月下旬からようやく走り始めました。練習に合流してすぐに夏合宿に行ったのですが、実はそこでもいきなりつまづいたんです。全然体が動かないのでおかしいなと思ったら、貧血でした。しかも入院して治療を勧められるくらい重症。当時は(今もかな?)群馬県の嬬恋で夏合宿を行なっていたんですが、顧問の先生と相談して僕だけ帰らずにそのまま宿舎に残って宿でバイトすることになりました。標高1400mほどのところで布団の上げ下げをやったり、賄いご飯を作ったり、掃除をしたり。その合間に自分で走ってました。右を見ても左を見ても山だったので、平地はほぼなかったのですが、このリハビリ生活も良かったですね。中学卒業間近の「疲労骨折」と、高校に入学した後の「貧血」は自分にとって大きな痛手だなと当時は思っていましたが、結果的にはしっかりした土台ができました。高校生の時は練習が終わったらみんなでサッカーやプロレスごっこをしてました(笑)夏には練習後にプールで泳いだりと、練習以外の部分でかなり体を動かしてましたね。走ることも大事ですが、もっとベースになる部分での基礎体力がないとそもそも練習を続けられない。僕が身をもって経験したことです。
ー高校時代の競技成績を教えてください。
貧血のトラブルはあったものの、その後は順調に練習をこなせたので、秋には栃木県の高校駅伝でアンカーを任されました。忘れもしない初めての高校駅伝・・・タスキを渡された時は3位でした。2位のチームにはすぐにおいつき1位の大田原高校も3kmほどでつかまました。でもラスト300mで再び離されて結局チームは2位。当時の区間新で走ったんですけど、個人記録よりもチームが負けたことが本当に悔しかったです。チームの目標は「全国高校駅伝」でしたからね。幸い強い仲間が集まっていたので、高校2年、3年と全国高校駅伝に出場しましたが、32位、26位となかなか上位に食い込むことはできませんでした。3年生の時に出たインターハイも予選落ちだったの、全国レベルの選手とは言えなかったですね。
箱根のスターとして活躍した駒澤大学時代
ー西田さんは強豪駒澤大学に進学されましたね。やはり箱根駅伝を目指して進学先を選んだんですか?
駒澤大学って言ったら、いまでこそ強豪校っていうイメージありますよね。でも、僕が進学したころの駒沢大学は13〜15位が”定位置”。当時はまだ箱根駅伝の本戦に15校しか出られなかったので、最下位争いをしていたような状況でした。もちろん優勝したこともなかったです。そもそも箱根駅伝の事が進学の決め手になった訳ではなく、従兄弟の家がお寺だったので、仏教学科のある駒沢大学に元々入りたかったんですよね。これは高校に入った頃からずっと思っていて、高校時代にどんなに良い結果が出せたとしても進路の希望は変わらなかったと思います。ただ、僕が入学するちょうど1年前に大八木さんがコーチに就任し、一つ上の学年に藤田敦史さんがいました。これが僕の陸上人生を大きく変えましたし、二人から受けた影響は本当に大きかったですね。
ー大八木さんはどんな人だったんですか?
大八木さんはとにかく熱血でしたね。まだ若かったこともあって、コーチというよりも兄貴分的な感じでした。大八木さんのエピソードは数知れずですが、世間一般的に持たれている厳しいイメージとは少し違って、常に余裕を持ってやれと言われてました。とくに大学に入学したての頃は体も細かったので、やりすぎるとぶっ壊れるぞと徹底的に言われましたね。でも離れると怒られちゃう(笑)大八木さんのすごさを語るエピソードとして思い出すのが合宿中のとある40km走。普段の練習では大八木さんは自転車で伴走してくれるのですが、アップダウンの激しいコースということもあって、さすがに合宿中は車で伴走していました。ところがある時、合宿中なのに自転車で40km走の伴走をしはじめたんです。その日の40km走は午前中にやるグループと午後にやるグループに分かれていたので1日で合計80km以上の自転車伴走(しかもママチャリ)を涼しい顔でこなしていて、その姿は強烈に印象に残ってます。自分もその時の大八木さんと同じ年齢になってきましたが、今の自分がそれをやれと言われると、躊躇しますね(笑)
ー藤田さんはどんな人だったんですか?
大八木さんの言われたことをしっかり(いや、それ以上かな)こなしていたのが、1学年上の(藤田)敦史さんでした。練習はもちろんすごかったけど、それよりもすごかったのは日常生活の様子です。普段の生活の部分がとにかく徹底していて、練習以外の部分がとにかく丁寧でしたね。これがいいと言われればすぐにやる。練習前に1時間くらいストレッチしている姿も見ました(笑)なかなか市民ランナーの方がこういう生活をするのって難しいですけど、それくらい重要だよってことは伝わるかなと思います。練習がある程度こなせちゃう人はたくさんいますが、それが続けられる人って多くないと思うんですよね。敦史さんの場合はとにかく練習で失敗しない人で常に高い水準でこなせてました。それが強さの秘訣だったのかもしれません。僕はそれを真似られたわけじゃないけど、こういう人がいるなら自分もちゃんと頑張らなくちゃなと思いましたね。
ー西田さんが大学3年生の頃は藤田さんは箱根のスターでマラソンも走ってましたもんね。
僕が入学してから駒澤大学はどんどん強くなっていて、優勝も夢じゃないくらいになってました。敦史さんが4年生の時には箱根駅伝の4区で区間新記録。4区は何度か距離が変更されているので区間記録自体が変わっているのですが、当時の敦史さんの記録は今年区間新記録を出した東洋大学の相澤くんと同等(敦史さん: 1時間00分56秒、相澤くん:1時間00分54秒)だったのでもし距離変更がなければ、敦史さんの区間記録は20年くらい続いていた可能性がありますね。卒業前にはマラソンにも挑戦するということで、その時僕は練習パートナーをやっていて、合宿で一緒に伊豆大島へも行きました。びわ湖毎日マラソンでは2時間10分08秒で瀬古さんが持っていた学生記録を更新。今でこそマラソンを走る大学生は増えてきましたが、当時は珍しくて、箱根だけじゃなく世界も見据えていた大八木さんはすごいなと思います。僕も大学4年生の3月に同じくびわ湖毎日マラソンを走ったのですが、敦史さんの流れを汲んでましたね。
ー西田さんが4年生になった時はどうだったんですか?
僕はチームをグイグイ引っ張っていくようなタイプじゃなかったので、4年生になっても淡々と練習やってましたね。世間的にイメージされるような最上級生らしいことは全然できてなくて、走りに関しては自分の事しか考えてなかったです。ただ、調子が悪い後輩とか、結果がなかなか出ない後輩のところに行ってふざけたことを言ったり、その場の空気を和ませたり、その場の環境を面白くしたいっていう意識はありました。ふざけたことばっかりやってましたよ(笑)でもおかげで後輩たちはみんな「面白かった」と言ってくれてたので、それで良かったなと思ってます。毎日の練習で疲れているのに、それ以外の日常まで窮屈にしたくなかったんですよね。
ー西田さん自身は怪我などなかったんですか?
怪我はほとんどなかったんですけど、夏はとにかく食欲が落ちちゃって食べられなくなってました。駒澤大学の夏合宿は野尻湖で行うのですが、アップダウンが激しいコースなのですぐにバテてしまい、なかなかメニューを全てこなすことができなかったです。下のチームに下げてもらうこともよくありました。4年生の時ですら約3週間の合宿期間を全てこなせず帰らせてもらたことがあったくらいです。自分の中では練習を全て完璧にこなすことよりも、変な疲労を残さないことの方が大事だと思っていて、練習結果にこだわらない代わりに、試合の結果にはこだわりました。秋にはきちんと結果を出してましたしね。練習をこなすことが目的ではなく、結果を出すことが目的なんですけど、ここをうまく意識できない人は結構多い気がしてます。
ーそして4年生の箱根駅伝では駒澤大学を優勝に導きましたよね
僕が大学3年生の時は勝てると言われていて負けてしまいました。だからこそ、1年間みんなで箱根駅伝を目指してやっていましたし、だからこそ優勝した時は嬉しかったですね。ただ、箱根が終わってからも気は抜けませんでした。というのも、3月にびわこ毎日マラソンを走る予定だったので、1/7に40km走をやることが決まっていたんですよ。箱根駅伝はあくまで通過点ということを大八木さんが意識させてくれたのかもしれません。
全日本大学駅伝でのタスキリレー(敦史さんと)
実業団時代の活躍と怪我
ー箱根駅伝の活躍をみれば、たくさんの実業団からお誘いがあったのではないですか?
いくつかお話をもらっていたのですが、その中でも一番自分に合っているなと思ったのがSB食品でした。当時からマラソンで世界を目指すという方針で、お正月のニューイヤー駅伝からは撤退していて、マラソンに集中できたんですよね。ここでも人との出会いにとても恵まれていました。瀬古さんという指導者と国近さんという先輩がいたのは駒澤大学に入学したときと状況が似ていたかもしれません。二人とも指導者として、競技者としてすごかったです
ーかなり厳しい練習だったんですか?
そりゃあもう、、、と言いたいところなんですが、実はチームに合流して瀬古さんから受けた最初の指示は2ヶ月間の休養だったんですよ。入ってすぐに「休め」と言われるとは思ってなかったです(笑)ただ、箱根駅伝が終わってから息つく暇もなくマラソン練習に移行していたので、たしかに自分の中では変な疲労感がありました。瀬古さんもマラソンをずっとやってきていたのでマラソンの疲れが体にどう出るか分かっていたんだと思います。大学4年生のびわ湖毎日マラソンが初マラソンだった自分にとっては、どんな風に疲れが出るかなんて知る由もなかったです。こんなに休養をとっていいものか戸惑いましたが、結果的には休んで本当によかったです。足はどこも痛く無いのに休むっている経験はもちろん初めて。おかげで疲れはすっかり抜け、走りたい気持ちもムクムクと湧いてきましたね。今振り返って思うんですけど、この「走りたい気持ち」っていうのはすごく大事で、もしここで休んでいなかったら早い段階で「脳」が疲れていたかもしれません。これは僕の感覚ですが、脳レベルで疲れてしまうと走りたいという気持ちが全く湧かなくなってしまいます。2ヶ月の休養なんて長い競技人生の中で見れば大したことじゃない。思い切って休んで、それを助走期間にするのは悪くないですね。休む勇気を持てずに頑張り過ぎている選手は結構いるんじゃないかなぁ。
ー2ヶ月の休養の後はどういう感じだったんですか?
休養期間といっても軽いジョグや流しくらいはやっていました。「休養期間2ヶ月」という指示には裏があって、休養期間の後に東日本実業団選手権の20000m(※現在は未実施)に出ることが決まっていたんですよ。休養明けにいきなり試合と思うかもしれませんが、そもそも怪我での休養じゃないのでいきなり試合というもの無茶ではなく、実際にこの試合は優勝しました(笑)目標を定めて休むというのは良かったのかもしれませんね。これ以降、本格的に練習がスタートしましたが、SB食品時代はほとんど国近さんと一緒に練習していました。国近さんは本当に強かった!瀬古さんが求める練習内容を(つなぎのジョグも含めて)全てこなせていたのは、おそらく国近さんくらいじゃないかな。
ーSB食品ってどんなチームだったんですか?
当時は駅伝から撤退していたチームだったので、個々の意識がすごく強かったです。それぞれが目指す目標があったので、そのためにどんな練習をするかを一人一人がよく考えてました。駅伝という目標があればチームに「流れ」みたいなもができるのですが、SB食品時代はチームにそういった集団としての流れはなくて、自分で目標を意識して仲間同士が高め合いながら練習しなくちゃいけない。流れに「飲まれる」ではなく、自分で流れを見つけて(作って)それに「乗る」というイメージに近いかな。当時は大学生と実業団の違いを明確に言語化することができなかったのですが、今振り返ると流れに「飲まれる」というのと「乗る」の違いがよくわかる気がします。どちらがいい悪いではなくて、その中での頑張り方ってあると思うんですよね。僕が国近さんと一緒に練習していたのは、目指すべきところや流れが国近さんに近かったから。お互いの流れをうまく使って一緒に高め合おうとしていたんですよね。
ー社会人1年目からマラソンに取り組もうと思ってたんですね!
そうですね。社会人1年目の目標は12月の福岡国際マラソンだったので、夏合宿はそのための練習でした。上述したように実業団に入った直後に3ヶ月の休養があって、すっかり疲れは抜けたのでいい練習はできていました。でも、アクシデントって急に起こるもんですね。その年の10月ごろでした。急にアキレス腱が痛くなったんです。しかも練習に向かうために歩いていた最中だったので、痛みが出た瞬間に何か大きな衝撃がアキレス腱にかかったわけではありませんでした。最初は甘く考えていたのですが、なかかな痛みが治まらない。「明日には治ってるだろう」「もう大丈夫」と自分に言い聞かせて走り出そうとしたこともあったのですが、やっぱり痛い。流石にこれはまずいとなって練習を休んで治療に専念するようになったんですよね。結局完治するまでに1ヶ月半ほどかかってしまったので、もう福岡国際に出るのは無理だねって話になり出場を断念。ただ、そこまではいい練習を詰めていたので2月の別府大分マラソンに目標を変えて練習を再開しました。高校生以降、怪我による長期離脱はほぼなかったのですが、1ヶ月半かかった怪我の回復期間はいい休養だと考えるようにしたんです。それが良かったですね。過去は変えられないって言いますが、結局考え方次第で過去の出来事の意味合いは変わるんですよね。性格的に不真面目だから(笑)、あまり考え込まずに切り替えるのは得意だったのかもしれません。
ー仕切り直しで出た別府大分マラソンは西田さんにとっては特別なマラソンになりましたね。
そうですね。福岡に出られなかったことは残念でしたが、結果的にこの別府大分毎日マラソンが僕の中で大きな成功レースになりました。怪我のこともあったので、実はあまり欲がなかったんですよ。自己ベストが出ればいいやくらいに思っていて、走っていたらすごく楽に走れていて、40kmくらいで勝利を確信。目立ってるなーって思ってウハウハでした。その結果でエドモントン世界陸上の代表にも選んでもらいました。世界陸上も貴重な経験でしたね。当然日本とは環境が全然違って手袋をつけるくらい寒かったと思ったら、翌日には30度を超えるくらい暑くなるというような状況。レースもまるでインターバル走をしているようにペースの上がり下がりが激しかったので、なんだか自分の力が出せずに終わっちゃいましたね。ただ、楽しかったなという思いが強かったです。マラソンは4回目だったので、怖いものがなかったのかもしれませんね。レースの結果は9位。入賞には一歩届かなかったのですが、その時の環境の中で自分の力を発揮する難しさと大切さを感じました。当たり前のことが当たり前にできなくなりますからね。
ー順調な実業団生活だったんですね。
ここまでの成績を見れば順調に見えますよね。世界選手権の後もしっかり休んだので順調に練習もこなせましたが、怪我に悩まされるようになったのはその少しあとからです。実業団に入って2回目の大きな怪我は右膝の靭帯損傷。これは自分の不注意で起こしてしまった日常生活の中での怪我だったのですが、3週間練習ができませんでした。そして、その後の自分の競技人生にもっとも大きな影響を与えた怪我に再び見舞われた右アキレス腱の痛みです。世界選手権のちょうど翌年くらいですね。今度の右アキレス腱痛は1回目のものよりもはるかに深刻でした。そもそも歩いている最中ではなく、ポイント練習中に激痛が走り、すぐにやばいなと感じました。しっかり1ヶ月半休んでよしいける!と思ったら今度は反対側のアキレス腱が痛くなってまた離脱。流石に怪我が続くと、メンタルを維持するのが難しくなってくるんですよね。怪我をしている時によく「この怪我を乗り越えればまた強くなるから」って言われますが、毎日痛みと向き合い、走れずに筋トレばかりしていると、そんなことを受け入れられるような心じゃなくなっちゃうんですよ。きつかったです。
ー怪我をしていた時に一番大変だったことは何ですか?
自分自身の気持ちのこともそうなんですけど、国近さんと練習ができなかったことがすごく心残りでした。というのも国近さんがアテネオリンピックのマラソン代表に選ばれていて、その時の練習パートナーは僕がやりたかったんですよね。ちょうど怪我をしている時だったので、一番大事な時にそれができなくて、本当辛かったです。その後痛みは引きま下が常に不安は残っていました。瀬古さんにも相談しましたが、その時にもらったアドバイスが「とにかく歩け」だったので、よく歩きましたね。高校に入学した頃、2時間かけて歩いて通学したことはここにもつながっているのかもしれません。
ー振り返れると実業団生活は怪我との戦いだったんですね
そういう見方もできるかもしれませんね。もともと僧侶になろうと思って大学に進学し、マラソン以外にもやりたいことがあったので、怪我で苦しんでいた時もネガティブに考えすぎることはありませんでした。SB食品で6年、その後JALグランドサービスに移って3年競技を続けましたが、セカンドキャリアのこともちゃんと考えてました。その辺りの詳しい話は以前インタビューを受けたことがあるのでこちら(私が苦しんだセカンドキャリア。引退後ってどうすればいいの?対談:西田隆維さん)をみてください。
最後に
ー今、怪我で悩んでいる方にはどんなことを伝えたいですか?
怪我した時は色んな悩みが出るものです。痛みがなかなか周りの人にも伝わらず、苦しい思いをすることもあるでしょうし、周りの人の練習を見ていたらつい走りたくなっちゃうかもしれない。でも、「痛みがあるけど頑張る」っていうのはやっぱり違うんですよね。一番の目標に到達するためには「頑張らない」ということも大事な取り組みです。休むことを怖がらないでください。そして肩の力を抜きましょう。
ー西田さんにとってランニングてどういったものですかね?
競技を引退してから僕も色々なことをやってきました。市民ランナーの方ともたくさん交流しましたが、その人たちが「ランニング=好きなこと」と堂々と言えて、生き生きしている姿を見るのがすごく好きなんですよね。引退してから僕は西田ランニングクラブ(NRC)という市民ランナー向けのクラブチームを作りました。昨年の12月末に活動を休止したのですが、クラブの練習会にきてくれた人たちはその後も自主的に集まって練習を続けているんですよ。僕が関わってた人たちらしいなと思うのですが、誰かにやらされるとか、練習会があるから行くじゃなくて自分からやりたいって思えることはすごく大事だと思ってます。その考えがベースがあれば、怪我をした時の悩みがちっぽけに思えたり、何がなんでも頑張らなきゃいけないという無理をしなくなるんじゃないかな。ランニングは僕にとっては人生を生き生きさせてくれるものですね。
ーなるほど・・・素敵なお話、本当にありがとうございました!
引退後にはたくさんの市民ランナーの方とイベントなどを通して交流
編集後記
すらっとした長身に爽やかな笑顔。かつて箱根駅伝の舞台で激走し、世界を相手にして戦ったランナーが見せる表情にしてはあまりにも優しく、そして穏やかでした。箱根駅伝の9区で当時の区間記録を出し、駒澤大学を初優勝に導いた立役者。実業団時代は舞台をマラソンに変えて活躍していた西田さんですが、こういう紹介をしようとすると、本人は苦笑いしてそんな大したもんじゃないよと謙遜します。そこも西田さんの魅力なんでしょうね。
インタビュー中に僕自身が感じたことは、全く偉ぶらない「自然体」で話をしてくれているなということでした。逆に、こちらのことまで気にかけてくれて、時々場を和ますように小噺を挟んだり、笑いを誘うようなエピソードをこっそり教えてくれたりしました。怪我をして落ち込むのは仕方ないことです。ただ、そこから気持ちを軌道修正することができなければ、回復にも時間がかかってしまいます。
怪我の捉え方や乗り越え方は十人十色。そういった中で少しでも何か感じるものがあれば嬉しいですね。