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身体感覚を磨くことで体は変わる
Winding Road #2山田翔太

度重なる怪我に見舞われた時、人にはどんな「変化」が起こるでしょうか?

多くのランナーは体だけでなく、心もどんどん消耗し、やがて走ることから離れるという選択を取ってしまうことも少なくありません。競技者であれば「引退」という二文字も頭をよぎり、さらに悩み苦しんでいきます。

実業団と市民ランナーの境界線は曖昧になっているように言われていますが、結果を出すことを組織から求められる環境の中で走るということは大きな責任が伴います。

今回インタビューをさせていただいた山田翔太選手も多くの怪我を経験し、所属する実業団チームから戦力外通告も受けてきた競技者の一人です。そんな中でも怪我と真正面から向き合い、雑草のごとく走り続けてきたのには、揺るがない想いがありました。

怪我に見舞われたとき、何を考え、どう行動してきたのでしょうか?Winding Road#2はプレス工業所属の山田翔太選手です。

 

山田翔太 プロフィール

《山田翔太(やまだしょうた)》
出身 千葉県
経歴 東海大浦安高校ー順天堂大学ーカネボウー順天堂大学大学院ープレス工業

《主な成績》
5000m             14分00秒98(2014.5.31 世田谷競技会)
10000m           29分02秒84(2010.11.20 日体大記録会)
ハーフマラソン    1時間03分40秒    (2019.02.10 全日本実業団ハーフマラソン)
フルマラソン       2時間15分43秒    (2012.12.17 山口防府読売マラソン)

 

順調な陸上競技のスタートと怪我に悩んだ高校時代

ー陸上を始めたきっかけはなんですか?

中学生の頃に友達に誘われたのが陸上を始めたきっかけです。始めたきっかけは至って平凡ですが、チームスポーツが苦手だった僕にとってはとても相性が良かったんですよね。スポーツは人との出会いが大事とよく言いますが、中学校の恩師は非常に指導力が高くて、練習メニューを素直にこなしていたら、面白いように記録は伸びました。

おかげで中学3年生の時に、全国大会(全中)やジュニアオリンピックにも出場。周囲からも一目置かれる存在になれましたし、今思えば伸び悩むことも怪我もなく、うまく競技ができた貴重な時期だったと思います。順風満帆な3年間でした。

 

ー期待されて高校に進学したんですね

そうですね。陸上競技の面白さを中学時代に知り、高校ではもっと頑張ろうと意気込んでました。当時から「高校でも結果を残して世界と戦えるような選手になりたい!」って思ってましたから。

陸上の強い学校に行きたかったのですが、いろんな選択肢がある中で僕が選んだ高校は東海大浦安高校でした。県内屈指の陸上強豪校です。ただ、強豪校といってもそれは短距離の話で、長距離は決して強い選手が何人もいるわけではありません。

中学校の時に結果を残していれば駅伝の強い高校に進学するようなイメージが世間的に強いかもしれません。ただ、僕はトラックで結果が残したかったですし、駅伝にもあまり魅力を感じなかったので、駅伝強豪校という選択肢ではなく東海大浦安高校を選びました。チーム自体はインターハイの常連校なので、部員の意識も高く、そういった環境を求めてたんですよね。

 

ー高校でも順調に競技を続けられたんですね

そうですね。と言いたいところですが、実は高校に入学した直後に怪我をしてしまったんです。怪我との長い長い戦いはここから始まりました。これからという時に出鼻をくじかれた感じです。

痛みが出たのはアキレス腱周辺や足首周り。怪我に対しての知識も経験もなかったので、戸惑うことの方が多かったです。なかなかうまくいかない自分に憤りや焦りもありましたね。

色んな怪我を経験した今だからこそ分かるのですが、当時の怪我は骨に異常があったと思います。それくらい痛みが強くて長引きました。

自分なりにいろんな取り組みをして怪我と付き合いながらやってきましたが、結果にはなかなかつながらなかったです。高校三年生の時はちょうど地元の千葉でインターハイが行われるときだったので、それが最大の目標でした。でも、長引く怪我でいろんな歯車が噛み合わなくなっていたんですよね。

高校生最後の年は怪我で県予選のスタートラインに立つことすらできなかったです。高校での競技生活は悔いが残ることばかりですね。

 

ー大学でも陸上をやろうと思って進学先を決めたんですか?

高校時代に結果を残すことができなかったので、ここで終われないという思いはとにかく強かったです。大学では何が何でも結果を残したかったので、進学先に選んだのは順天堂大学でした。ご存知の通り順天堂大学は駅伝の強豪校。「箱根駅伝に憧れて進学したんでしょ」と言われることもありますが、それはあまり意識していませんでした。僕が目指していたのはあくまでトラック(個人)での結果でしたから。

予想していた通り、順天堂大学はこれまでにない環境ですごく刺激が多かったです。まず、練習相手がとにかく強い。1年生の時にはチームが箱根駅伝で総合優勝しました。チーム力も個人の能力も高い集団でしたね。元祖山の神と呼ばれていた今井正人さん、現順天堂大学駅伝監督の長門俊介さんなどタレント揃いでした。ただ、上述の通り僕は箱根駅伝に対しての思い入れはそこまで強くなかったですし、自分は駅伝のメンバーには選ばれなかったので、心の中では箱根駅伝優勝を少し客観的に見ていたかもしれません。

また、科学的なトレーニング方法を学べるという環境も順天堂大学への進学を決めた要因でした。どうすれば強くなれるか?それをただの根性論や特に理由もなく続けられているトレーニング方法ではなく、根拠を持って取り組めるトレーニングを自分自身で学びたいなと思っていました。その環境としては抜群に良かったです。

 

箱根駅伝で味わった地獄が価値観を覆した

ー箱根駅伝にはあまり強い思い入れがないということですが、山田さん自身は二度走ってますよね?

そうですね。チームとしては一つの目標(駅伝)に向かってみんなで頑張るという雰囲気がありました。それでも、個人で結果を残したいという想いは入学後もしばらく変わりませんでした。箱根駅伝は個人が強くなる過程の一部くらいに思っていたのが正直なところです。

ところが、その思いが変わったのが大学2年生の時でした。ディフェンディングチャンピオンということで、周囲からは注目された年です。前年に比べれば明らかにチーム力は落ちていましたが、それでもある程度は戦えるかなと思っていましたが、蓋を開けてみるとまさかの1区最下位スタート。悪い流れはドミノ倒し的に後半のランナーへも伝わり、とうとう5区で悪い流れが顕在化してしまいました。

その年は、小野裕幸さんが今井正人さんの後を引き継ぐように山登りを担当しましたが、いろんな意味で注目されていました。今井さんがものすごい走りをしていたので、比べられるのは当然ですよね。序盤は非常に良いペースで刻んでいたのですが、悪い流れを取り戻そうとして無理をしてしまったのかもしれません。責任感の強い小野さんらしい行動でしたが、結果的にそれが裏目に出てしまいました。

小涌園あたりまでは区間順位も3番だったので、ここまででかなり挽回してくたのですが、次第にペースが鈍ってきて最後はふらふらの状態になってしまったんです。中継を見ながらいたたまれなくなってしまいました。明らかな低血糖と脱水症状です。それに加えて箱根の山中の低体温も相まって、ラスト500m地点でとうとう動けなくなり、そこでチームは途中棄権。その年は参加20校中3校が途中棄権するという異常な年でしたが、それにまさか自分たちのチームが含まれるとは思ってもいませんでした。

呆然となるとはこういうことですね。僕は翌日、復路の9区を走ったのですが、届けられた襷は「一度途切れてしまった襷」、つまり順位はつきません。この箱根駅伝での出来事がきっかけで駅伝への想いはガラッと変わりました。

 

ーどういう風に変わったんですか?

やっぱり箱根駅伝で抱いた悔しさは、箱根駅伝で返したいと思いましたね。ただ、翌年は予選会を戦わなければいけません。まずは10月の予選会が一つの目標になりますし、チームはそれに向けて一丸となりました。ところが、春先に望まぬアクシデントが僕を襲いました。

「舟状骨の疲労骨折

足部の疲労骨折の中でも特に完治に時間がかかる疲労骨折です。再発しやすい疲労骨折で、完治させるためには完全に休むことが必要でした。きっと箱根駅伝の途中棄権を経験しなければ、自分のためにしっかり休んで治し切るという選択を「迷わず」とっていたと思います。ただ、この時はチームのために痛みを我慢しながら練習をだましだまし続けるという選択を「迷わず」とったんですよね。こういう感覚は初めてでした。僕はチームの中心選手でしたし、当時は立場的に上級生。箱根駅伝で走る中でチームを引っ張っていかなければという使命感が無理をさせたんだと思います。

その1年間はこれまで以上に苦しかったですね。春を過ぎて、夏を迎え、秋になっても痛みは完全に引きません。チームの調子も悪くて、自分が休めるような状況ではなく、痛みもある中で無理やり予選会に合わせました。それも無理に拍車をかけてしまいましたね。

予選会は辛くも通過できましたが、無理をした代償は大きかったです。その後の練習も思った通りに詰めないし、そもそも痛みがちゃんと引いてくれず、本戦でカリをかえすどころか3区区間22位(23チーム中)でした。チームも19位に沈みシード権を取り戻すこともできなくて、再び悔しい思いをしてしまいましたね。

 

怪我との戦いの中でも揺らぐことのなかった走ることへの情熱

ー大学最後の年はどんな風に過ごしたんですか?

最終学年も苦労の連続でした。疲労骨折の後遺症は徐々に落ち着いてきたものの、一度崩れた歯車を立て直すのは本当に大変でした。最上級生ということでチームを引っ張り、自分も頑張るという日々。それでも個人個人の力がなかなか伸びず、チームとしても苦しんだ1年でした。

僕にとっては二度目の予選会。無理は・・・してましたね。最低限の走りでチームを引っ張ることはできたと思っていますが、チーム力の低下は深刻で、52回続いていた箱根駅伝の連続出場がストップ。今年は山梨学院大学が箱根駅伝への連続出場を33回で止めてしまいましたが、これと同じく”大事件”でした。長い陸上人生の中でも思い出に残るレースは何ですかと聞かれたら、僕はいつものこの大学4年時の予選会だと答えています。

僕は大学内トップだったのですが、予選会が終わった直後に足を痛めてしまい、結局学連選抜チームにも選ばれず。正真正銘「箱根駅伝に順天堂大学がいないお正月」にしてしまいました。

 

ー大学4年間を通して怪我の連続だったんですね

確かに、僕は本当にいろんな怪我をしました。ただ、いろんな怪我をするなかでよく考えるようになりましたし、このまま普通に競技をやろうと思ってもダメだなと感じて、走ること以外のトレーニングもたくさん取り入れました。

よく「基礎づくり」が大事といって走り込みを推奨するコーチや治療家がいると思います。もちろん大事なんですけど、僕はもっと下層に「基礎づくりのための基礎」があると思ってます。そうじゃないと、そもそも長い距離や時間を走り続けることはできない。なんとか練習ができたとしても、歪んだ土台になってしまうと思うんですよね。

 

ー「基礎づくりのための基礎」とは具体的にどういったものですか?

もう少しわかりやすく言えば「走る以前の状態」かな。

走るということは単純動作ですが、技術的に簡単かと言われるとそんなことはありません。むしろ真逆で単純だからこそめちゃくちゃ難しいと思うんですよね。だからこそ、常に自分と向きあい課題を一つずつ炙り出していく作業が必要です。何が原因で怪我をして、どうすればその原因が取り除けるかを考えてきました。自分の中で少しずつそれが分かってきましたし、そういうものを考えていく中で、「ランニング以外のトレーニングの重要性」に気づきました。

自分じゃ分からないことや気づいていない観点は専門家に助言を求めるようにしてます。いいなと思ったものは人からなんて言われようと信じてやってきましたね。

 

ー気持ちが切れることはなかったんですか?

もちろん何度も悩み苦しみましたが、それでも自分はまだこんなもんじゃないし、もっとやれるという想いが途切れることはなかったです。

大学を卒業して実業団に進んだ後も、ずっと怪我には悩まされていましたが、それでも走ることをやめるという選択肢を取ることはありませんでした。そんな僕を見かねて順天堂大学の監督である澤木先生には「お前はなんで走ってるんだ」と冗談半分によく言われました。澤木先生だけじゃなくて周囲の人からも気持ちが切れない自分が不思議に見えていたのかもしれません。

でもそこには「まだやれる」という想いがあって、それが自分を「走る」という行動に駆り立てていたんですよね。走ることへの情熱は今も揺らぐことはありません。

 

実業団選手として戦っていく

ー大学を卒業したあとは実業団に進まれたんですよね

大学生を卒業した後は実業団のカネボウに進むことが決まりました。実業団に進んで競技を続けられる選手はほんの一握り。カネボウは大学以上にレベルの高い集団でした。練習に食らいつくように頑張りましたが、強くなっている実感はなかなか持てず、苦労しながら競技を続けていましたが、4年目の1月に戦力外通告を受け退部。それでも、まだやれるという思いは消えていなくて競技が続けられる環境を探していました。

怪我が多かったので、いろんな意味でもう一度ゼロから走ることを見直そうと思ってカネボウ退社後に順天堂大学の大学院に進学しました。その後も、自分でトレーニングを続け、大会にも出てましたし、中学の恩師にお願いして走りを見てもらったこともあります。

ーその後、今の所属先となるプレス工業に入社することになったんですね

そうですね。強くなりたいという一心で諦めずにやっていれば、ご縁って出てくるんだなぁと実感しています。今の所属先であるプレス工業の合宿に参加させてもらうことがあったのですが、その時にチームの雰囲気が自分に合っていてここで競技をやりたいと思うようになりました。その後の記録会での走りを評価してもらい、チームの一員となることができました。

プレス工業に来て4年。僕も今年もう32歳になる歳で年齢的な問題を理由に引退する同期も徐々に増えてきました。それでも今年の2月にハーフマラソンで自己ベストを出すことができましたし、まだまだ結果にはこだわりたい。特に近年ではマラソンに力を入れているので、マラソンで結果を出したいです。自分がこれまでやってきたことを結果で証明するのが今の自分の使命かなと思ってます。

ープレス工業への想いを聞かせてください

競技を続けたいという想いを尊重してくれた今のチームには感謝しています。基本的にはやっぱり個人の結果を残したいし、それが一番にありますが、その一方でチームのために頑張りたいという気持ちもあります。今は自分がやりたいと思ったことを遠慮せずに言えますし、そういういい意味で自由な環境が僕にはとてもありがたいですね。

チームの最大の目標はニューイヤー駅伝です。そのためには東日本実業団駅伝を勝ち抜かなくちゃいけないので、毎年11月が勝負の月ですね。来年の元旦も無事にニューイヤー駅伝に出場できることになりました。11年年連続11回目の出場です。

今でこそ陸上部のことは会社からだいぶ理解されていますが、昔はそうじゃなかったと聞いています。それでも結果を残していったり、仕事もきちんとして陸上部じゃない社員とコミュニケーションを取っていく中で応援してもらえるようになりました。個人としての目標もありますが、ニューイヤー駅伝に出場することがチームの存在意義にもなっているので、ここは大切にしていきたいですね。

 

怪我と向き合う中で気づいたこと

ー怪我と向き合う中で山田さんが考えていたことを教えてください。

今なら怪我をした原因やどうすればよかったかなどは鮮明にイメージできます。身を以て経験したことは僕にいろんな知恵を授けてくれました。

競技力って「楽に走る技術」と「我慢して走る技術」の掛け算だと思うんですよね。力任せに走っても走れなくはないけど、記録は伸びません。そして、そのうち頭打ちになります。

順天堂大学、カネボウと日本屈指のトップ選手が集まる集団の中にいましたが、トップ選手は本能的に「楽に走る技術」を身につけていました。そしてトレーニングの中で「我慢する技術」も磨いていく。その中でもさらにトップの選手(トップオブトップ)はこの両方をきちんと兼ね備えてるんですよね。

 

ーなるほど、こうして整理して考えると分かりやすいですね。

トップで活躍する選手は感性が鋭いですし、気づく能力が高いですね。長距離選手って真面目な人が多いですが、結果を残す人はちゃんと「やらない」という判断もできるんです。休むべき時に休むので大怪我は回避できる。僕は陸上人生の中でなんども無茶しちゃったなと思います。

トップ選手のなかでも感覚がちゃんと言語化できている選手は伸び悩んでもちゃんと復活するし、指導者になっても結果を残していると僕は感じます。

 

ー山田さんから見て怪我から回復するために一番大事なことは何だと思いますか?

僕は怪我から回復する一番重要なことは「原因」を見つけることだと思ってます。怪我や痛みには必ず原因がありますが、そういった原因がわかっていないまま、治療やリハビリをしていても自己満足にしかなりません。本気で怪我を治したかったら、焦らずにじっくりと自分の体に向き合うことが重要な時期もあると思ってます。

人間は生きていく中で必ず何かしらの癖を持ちます。そして、ランナーは長時間同じ動きを繰り返し、その中で全力で追い込む。そのため、ちょっとした癖が特定の筋肉への負荷に変わり、それが知らず知らずに蓄積され、身体を歪ませていきます。そして故障する。だからこそ、故障を根本的に治すためには、その順序の逆を辿るしかないんです。まずは身体の歪みを一つ一つ取り除き、それに加えて、自分の癖、つまり間違った使い方を特定し、改善することが必要になります。

でも、そのちょっとした癖は、身体の意識の向け方やメンタルや自律神経や疲労などの様々な要因によって簡単に生まれてしまいます。だからこそ、長期の故障から脱却は難しいんです。僕も経験がありますが、いつまでも原因が見つけられなければ「負のスパイラル」に陥ってしまい、なかなか故障は癒えません。怪我の予防という面では。やはり自分自身の癖を知っておくことが重要になると思います。

怪我へのアプローチは例えるなら「ルービックキューブを解くこと」に似ています。バラバラになってしまった状態から一面を揃えるのは簡単です。ただ、二面、三面とだんだん難しくなり、全面揃えるのはかなり難しい。時には失敗してバラバラになる。解き方を知らないと、かなりの時間がかかってしまう。結局の所、一つ一つ丁寧に正しく解いて元の状態に戻すしかないんですよね。

 

ーすごく分かりやすい例えですね!

身近なものに例えるとイメージを共有しやすいですよね。そして、腕の良い治療家に出会うことも本当に大事だなと思ってます。自分だけじゃ判断しきれない部分も絶対に出てきます。自分じゃ気づけないことを指摘してくれる専門家はいるので、そういった人にキチンと助言を求めることは絶対に必要です。治療家がラン二ングに精通していることは必ずしも必要じゃなくて、逆に自分が知らないことを知っているという意味で、最近は他競技を専門にする治療家やトレーナーからアドバイスもらうこともあります。

それと、この人はすごいなと思った治療家は次に会った時には必ず僕の陸上に対する考え方を話し、ディスカッションしながら身体を診てもらうことにしています。その方々は僕の話を真摯に受け止めて下さり、人間的にも本当に素晴らしい。まぁ、めちゃくちゃ面倒なやつだなと思われてるかもしれませんが。笑

 

ー最後に山田さんのこれからについて、考えていることや思っていることを自由に聞かせてください。

競技はまだまだ続けますし、やりきりたいと思ってます。もちろん、ずっと結果を求めていきます。

でも、いつかは引退しなければいけない時期が必ずやってきますよね。それがいつになるかは分かりませんが、そうなった時に、これまで自分がやってきたことや考えてきたことを活かす場が無いのは勿体無いなと思ってます。

カネボウを退社した時に順天堂大学の大学院に進もうと思ったのは、将来指導者になりたいと考えていたことも理由の一つでした。たくさんの怪我をしてきたことで、こうすればこうなるという原因と結果が今はよく分かります。言語化できたものや再現性を作れたものもあるので、それを何かしらの形で残したり伝えたりしたいですね。

 

編集後期

「今でも世界を狙う気持ちに変わりはありません」

愚直なまでに上を目指す山田さんの言葉には一切の迷いがありませんでした。苦しい時期を過ごしてきたからこそ、覚悟ができた目をしていて、インタビュー中もその姿が印象的でした。今回現役選手である山田さんに怪我のお話を聞くという何とも失礼なことをお願いしてしまいましたが、快く承諾してくれました。「僕は多くの怪我を経験してきたし、その中でいろいろなことに取り組んできましたよ。僕の経験が誰かの役に立つなら喜んで受けます」といってくれたことは山田さんの人間性そのものを象徴していると思います。

お話しを伺う中で、長年の競技生活を通して経験した怪我の話がとにかく尽きませんでした。山田さんが語る言葉の中には遠慮も脚色もなく、実感が込もったお話だったからこそ、リアルさが伝わってくるんでしょうね。

箱根駅伝を走り、実業団に進んでまで競技を続けられる選手はやはり選ばれし者です。それでも「自分には才能がないし、それを努力と工夫で補っていかなければいけない」と語る山田さんの言葉はとても重かったです。

怪我は人を大きく成長させます。ただし、それは結果論であって、怪我によって何を考えどう行動したかがとても大事なのではないでしょうか。今後も山田選手、プレス工業の活躍を注目して見ていきたいと感じました。

(文責:宮川浩太)

November 18, 2019/コラム/

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