楽しいマラソンを続けるための「自分流」
市民ランナー名鑑#4 廣瀬光子

様々な市民ランナーを紹介するコラムも4回目。今回は、NAHAマラソン6連覇を含む様々な大会で上位の成績を残す廣瀬光子(ひろせみつこ)さんにお話を伺いました。

もともと実業団で活躍した経歴を持っていますが、たくさんの人を巻き込みながら走ることを楽しむ姿は、とても親しみやすく、それでいて自身の記録を鼻にかけることは決してありません。これまで経験してきた様々な苦労も含めて、笑い飛ばしながら話す廣瀬さんの魅力が多くの方に伝わるような楽しいインタビューになりました。

どうぞ、ご覧ください!

 

廣瀬光子 プロフィール

《廣瀬光子(旧姓:杉原)》
所属   東京WINGS
出身校  都立日野台高校

《自己ベスト》
3000m   9分36秒52 全日本実業団選手権 1993.10.2
5000m   16分17秒52 東日本実業団選手権 1995.4.9
10000m 32分55秒26 水戸国際陸上 1996.5.6
ハーフマラソン 1時間11分27秒 東京シティマラソン 1995.1.21
フルマラソン  2時間30分27秒 名古屋国際女子マラソン 1996.3.10

《主な戦績》
1996年 青梅マラソン 優勝
1996年 名古屋国際女子マラソン 6位
1999年 ボストンマラソン 8位
2012~2017年 NAHAマラソン 6連覇
2016,2018,2019年 富山マラソン 優勝

 

「みっちゃんすごいね」から始まった幼少期

ーどんな幼少期を過ごされたんですか?

今は東京都八王子市に住んでいますが、小学校二年生まで栃木県に住んでいました。今の私を見たら誰も信じてくれないですが、当時は「箱入り娘」状態でとても大事に育てられたんです(笑)危なそうなことはとりあえずNGで、自転車も危険な乗り物とみなされ買ってもらえませんでした。

でも、子どもは親の思い通りに育たないもんです。小さい頃は「箱入り娘」どころか、「おてんば娘」で本当に活発でした。自転車は持っていなかったので友達と遠くまで遊びに行くときは私だけ走って移動。そんなときに「みっちゃんすごいね」と言われるのが嬉しくて、きつくても平気なフリをしてました。それが毎回になるといつのまにか本当に平気になるもんです。当時は「走る女の子」ってみんなに思われてました。

ーなんだかすごいエピソードですね(笑)

いま振り返っても我ながらよくやってたなぁと思います。でも、当時は全然気にせずやってたんですよね。もし自転車を買ってもらってたり、違う育て方をされてたら、今の自分はなかったかもしれません。

自分の子どもたちにも同じようにたくましく育って欲しいと思いますが、こちらも親の思った通りにはなかなかいかないものですね。私の子供時代に比べたら、全然身体を動かさない(苦笑)。ただ、「自分と全く同じように」と言うのは当然無理なので、悪く思ってるわけじゃないですよ。子供たちが素直に伸び伸び育ってくれるのが一番なので、興味を持ってくれていつか一緒に走ってくれたらいいな〜くらいに今は思ってます。最近は子供たちもちょっとだけ走るようになりましたしね。

ー陸上を始めたのは中学生になってからですか?

そうですね。陸上部に入ったことがきっかけでした。担任の先生が陸上部の顧問だったんですけど、足の筋肉を褒められたんです(笑)それでも私にとって「走る」ということは特別じゃなかったので、実は当時の競技成績とか、あまり覚えてないんですよ。目立ったり注目されるような成績が残せていたわけじゃないと言うのもありますが、基本的には子供の頃までと同じく「かけっこ」の延長だったんでしょうね。

ー中学時代はそこまで実績があったわけじゃないんですね。

当時通っていた中学校が少し荒れていた時期だったので、そもそもあまり落ち着いて部活動ができる雰囲気じゃありませんでした。まぁ、部活よりも勉強という感じだったので、実績も含めた部活の思い出があまり浮かんでこないのかもしれませんね。

 

周りの環境が自分の人生を変える〜高校時代

ー高校生になっても陸上部に入ったんですよね?

そうですね。一応陸上部には入りました。でも、入った当初はあまり熱心な部員じゃなかったです。靴ズレでちょっと血が出たくらいでもすぐに練習を休んでたくらいですから。

でも、周りの仲間の影響って大きいですね。進学校でしたが、チームの中には中学時代に全国大会に出ていた子もいて、高校1年生の秋ごろからその子たちと一緒に、すぐ近くにあった陸上強豪校の練習に時々参加させてもらうようになったんです。そこで状況が一気に変わりました。

ユルユルと部活を楽しんでいた私には強豪校の練習は目からウロコでしたね。「走る女の子」と見られることが嬉しかった子供の頃のあの感覚が戻ってきたような感じでした。

ひと冬越えれば人って変わるもんです。高校2年生になった頃には周りも驚く急成長!まぁ、一番驚いていたのは自分自身なんですけどね(笑)

ーどれくらいの記録が出たんですか?

当時は800mや3000mをやっていました。東京都の大会であればその種目で上位入賞できるくらいに記録が伸びたんです。急に登場したので、あいつは誰だ?ってなってましたね。

一番注目を集めたのは高校3年生の時の南関東大会。東京で開催された年だったので、学校の仲間がたくさん応援に来てくれたんです。そういう注目を浴びることは当時から好きで、インターハイがかかったレースで自己ベスト!しかも初めて3000mで9分台が出たので、すごく嬉しかったです。

ー当時は高校生の女子選手が3000m9分台ってなかなか出せない記録ですよね

今では多くの高校生がこれくらいで走っちゃいますが、当時は周りも自分も相当驚くタイムでした。

この記録のおかげで、夏以降にいくつかの実業団チームからお声がかかりました。高校の友達はほとんどが大学進学するなかで、実業団に入る=就職っていう選択肢はずっと頭になかったんですけど、こういうチャンスは誰にでもあることじゃないと周りからも勧められて、最終的にNECに進むことにしたんです。

 

体脂肪率は6%!?実業団時代に見舞われた危険な落とし穴

ーNECで7年競技を続けられたということですが、何をメインにして走っていたんですか?

1年目は高校までの延長でトラック種目がメイン。さすがに800mは走りませんでしたが、3000mでは30秒ほど自己ベストを更新しました。競技生活は順調にスタートできましたよ。

また、実業団なので駅伝も軽視できなくて、そこでも結果が出せるように頑張りましたね。チームはもともと上位入賞できるレベルだったので、一度先頭で襷を受けたこともあります。

当時は日本の女子がとても強い時代だったので、私の区間には名だたる選手が揃っていました。流石に力の差があったので、順位を落としてしまいましたが、自分の力はしっかり出せたと思ってます。ある意味予定通りの走りでした。

余談ですが、テレビ中継のなかでトップを走る私が次々に抜かれる姿を見ていたおばあちゃんがすごく心配していたようです。心配してくれる家族の存在は本当にありがたいですが、陸上に詳しくないおばあちゃんにとっては、心臓に悪いレースだったことでしょう(苦笑)。

ーマラソンも若い頃から取り組まれてましたよね。

そうですね、自分では長い距離の方が得意だと感じていたので、結構早い時期からマラソンは意識していました。でも、2年目に大きな落とし穴があったんです。なんだか調子が悪いなぁ、くらいから始まったのですが、だんだん普通に歩いていても苦しくなるし、顔色も黄色?っぽくなっていて、最終的には日常生活にも支障が出る始末。これはおかしいと思って血液検査してもらったらヘモグロビン値は10g/dl以下になっていて、「貧血」と診断されました。

体の丈夫さには自信があったので、これはかなりしんどかったです。でも、実はこの当時、体脂肪率が6%くらいしかありませんでした。これは間違いなく貧血の要因になっていたでしょうし、そもそも女子選手でその体脂肪率は低すぎる。女性の場合、体脂肪率が10%以下になると危険なのは知っていたのですが、深刻に考えていなかったんです。むしろ体が軽くていいやくらいな感覚ですね。

ーそれは、かなり危ない状況ですね

最近は女性アスリートの健康問題についてだいぶ注目されるようになりましたが、当時は本当に何もわかっていませんでした。

実は高校3年生の頃から月経が止まってたんです。私の場合は緊張感や高揚感など、気持ちが高ぶっていると、体に出ることが多かったかな。でも、当時は月経が止まる=頑張ってるという感じに誤解している子も多く、私もどちらかといえば考えがそれに近かったです。

ただ、NECは女性の体のことに配慮してくれるチームだったので、病院で検査を受けるように強く言われました。引退後に子供を二人授かりましたし、結果的には問題なく健康に過ごせてますが、今思えば凄く怖い考えだったなと思います。女性の体は本当に大事!このあたりの知識や情報は今後もっと世の中に認知されてほしいですね。

 

初マラソンで快走!マラソンで勝負していきたいと思った実業団3年目

ー貧血から回復するのに、どれくらいかかったんですか?

貧血はかなりひどい状況だったので、なかなか良くならなかったです。社会人2年目は貧血に悩まされっぱなしでしたね。ただ、焦らずに治療に取り組んだ結果、時間はかかりましたが完治。後にも先にも貧血はその時だけです。私は性格的にあまり物事を深刻に考えないタイプなので、それも良かったのかもしれません。

結局焦ってもジタバタしても良くなるわけじゃないですよね。実業団という環境だとどうしても追い込まれがちですが、自分でそういう状態に追い込むのは得策じゃない。楽天的な思考に助けられました。

ー確かに、気持ちの持ちようで変わる部分はありますよね。その後マラソンに挑戦されたということですか?

マラソンに初めて挑戦したのが3年目の名古屋国際女子マラソンなので、貧血から回復して1年ほどたった後です。初マラソンって怖いもの知らずで結構いけちゃうもんですね(笑)ペースメーカーもいない時代なので、序盤からペースが上がり下がりする目まぐるしい展開。でも、気にせずずっと先頭集団についていました。

マラソンに出ることも、集団の中で給水をとるのも、すべてが初めて。とりあえず給水では転ばないようにしようと思っていたら、レース中に1度しか水を取れなかったです。

結局、32kmで先頭集団から離れてしまいましたが、私の中では「離れた!」というよりも「ここまでつけた!」という意識の方が強く。まぁまぁ満足してました。タイムは2時間30分27秒。7年間の実業団生活の中で4度フルマラソンは走りましたが、この記録がベストです。でも、だいたい同じくらいのタイムで走っていたので、良くも悪くも安定感は抜群でしたよ。

マラソンは能力的に自分にピッタリでしたが、性格的には不向きだったのかもしれません。絶対に負けたくないというような勝気なメンタルが弱かったと思ってます。日本代表として世界を相手に戦えた選手とそうじゃない選手の違いかもしれませんね。

ーそれでも廣瀬さんは数々の大会で優勝してますよね。一番思い出に残っているレースって何ですか?

競技をやっていて嬉しかったレースは、胸の差で勝った東京選手権の10000mと青梅マラソンの30kmで優勝した時ですかね。これはとても思い出に残っています。

やっぱり1番と2番とでは見える景色が違うなって思いました。私は日の丸をつけるような選手にはなれませんでしたが、自分の中で納得するレースが一つでも二つでもあればそれはすごく大事なことだと思うんですよね。その瞬間のレースのことをはっきり思い出せるってことは、私にとって大切な意味があるんだと思います。

 

体のために「基本的なこと」はおろそかにしちゃいけない

ー怪我などはなかったんですか?

幸いにも長期間にわたって練習を離脱するような怪我はほとんどなかったです。食べることが好きだったこと、小さい頃から健康的に育ててもらたことが大きかったですね。こんな風に育ててくれた親には本当に感謝です。

ただ、年齢を重ねるにつれて小さな痛みはやっぱり出てきました。私の場合は足首がウィークポイントでしたね。もともと扁平足で外反母趾というやんちゃな足だったので、それをかばった結果だと思ってます。今でも時々痛むのですが、最近では強い痛みになる前にケアに行くようにしてます。

やっぱり長く走ることを楽しみたいですし、痛みが強く出てから何かするんじゃ遅いですからね。

ー廣瀬さんからみて怪我予防に大切なことってなんだと思いますか?

自分自身を振り返ると、体が丈夫な理由は普段の生活にあったと思うんですよね。食べることが好きだったので、しっかり食べてました。実業団時代は体重管理が厳しかったのですが、それでも食事量をコントロールしたり極端な減量を試みることはなかったです。

なんでも「基本的なこと」はおろそかにしちゃいけません。マラソンは自分の体一つでやるスポーツなのでその傾向は他のスポーツよりも強いと思います。

ー怪我を理由に現役を引退する選手も多いですが、廣瀬さんは実業団を引退されたきっかけは何だったんですか?

実業団で競技をやっていれば誰しも世界で戦うってことを一度は意識すると思います。私の場合はそれを意識したのが「シドニーオリンピック」でした。年齢的にもおそらくそこがピークになるし、だったらそこを目指して頑張ろうってなったんです。

ご存知のように、高橋尚子選手が金メダルをとったオリンピック。女子のマラソン代表は非常に厳しい選考で、私は勝ち抜くことができませんでした。その時にここできっぱりと競技から引退しようと決意。まだできたかもしれませんが、引き際は自分で決めるつもりだったので、間違った判断じゃなかったと思ってます。

 

私が走り続ける理由

ー市民ランナーとなった今でも様々なレースで結果を残してますね。

おかげさまで、楽しく色んなレースに参加してますが、実は実業団を辞めてから一度パッタリ走ることをやめました。好きだったケーキも好きなだけ食べられるのが嬉しかったですね〜。冗談じゃなく、ケーキをホールで週に2個も食べてました(笑)ケーキだけじゃなく、普段の食事も普通にしっかりとっていたので、当然のごとく太りましたよ。でも、すっかり月経は戻ってきましたし、体にとっては良かったのかもしれませんね。

長距離選手ってどうしても体重を気にしがちです。間違ったことじゃないんですけど、その意識が過度に行き過ぎると際限なく細さを求めちゃうんですよね。ストレスが溜まって逆に太っちゃう子もいます。食べてないのになんで?ってなりますが、結局体が飢餓状態だと敏感に反応して必要以上に栄養を吸収するのかもしれませんね。

ーストレスで太るって話はよく聞きますが、実際に多いんですね。

体質、遺伝、生活習慣、家族の影響など、太りやすいタイプって様々でしょう。でも、気持ちの持ち方はとても大きい要素じゃないかなって思うんですよね。

太るには必ず原因があるので、そこを解決しないで数字だけみてても、うまくいかないですよ。痩せても走れなかったら、もっと痩せなきゃって発想になっちゃう。そういう発想って悪い循環に陥っちゃいますよ。

長い目で見たら目先の事だけにとらわれることは良いことじゃないので、開き直っちゃうことも大事かもしれません。最近巷でよく聞く言葉を借りれば「鈍感力」ですかね。私はこれは非常に高いと自負してます(笑)

ー廣瀬さんが市民ランナーとして再び走り始めたきっかけって何だったんですか?

実業団をやめてしばらくしてから、「駅伝に出てくれない?」って声をかけられたんです。そのときはタップダンスなど体を動かすことをやっていたので、練習してなくても走れるだろうな〜くらいの気持ちで引き受けたら体が全然動かない!?

そりゃそうですね。そもそも毎日練習漬けだった実業団時代と比べること自体がダメなのかもしれませんが、どうせ駅伝に出るなら速く走れた方が楽しいじゃん!と思って自然とランニングを再開しました。その後、2度妊娠して走れなくなった期間もありましたが、自分は走れないのに練習会を主催したりしてたので、ランニングが生活の一部として完全に復活(笑)楽しかったですね!

ーめちゃくちゃ活動的だったんですね(笑)産後はどうやって体を戻していったんですか?

妊娠中はもちろんですが、産後もしばらく大人しくしてましたよ。貧血のときと一緒で、今は焦っちゃダメだと思って1ヶ月ほど完全休養。ベルトで骨盤をしっかり締めて産褥期からの回復に努め、その後は無理せず本当に少しずつ体を動かしていきました。

産後の体の状態は人によっても年齢によっても違うので、私のケースは参考にしすぎないで下さいね。ただし、「焦らない」ということは間違いなく大事だと思います。

ー市民ランナーになってから考えが変わったことってありますか?

基本的に「走ること」への想いは変わってないかな。もちろん実業団時代は結果を求められたので、さすがの私でもしんどいと感じることはありました。競技なので、それは当然なんですけど、真に受けすぎないように上手に抜くことができたおかげで、「走ること」が嫌いにならなかったですし、今でも楽しみながら走れてます。

走っててよかったなと思うのは、たくさんの友達ができたことです。みんなでそれぞれの目標に向かって一生懸命走っていて、自己ベストを出したらみんなで喜び合えるし、個人競技だけれどチームワークの大事さを感じています。

昔に比べると、無理できない体になっていますが、好きなマラソンはいつまでも続けていきたいですね。

 

編集後記

一度会ったら忘れないランナー。

褒め言葉としてこの枕詞がぴったりなんじゃないかなと思います。廣瀬さんは明るくて笑顔が絶えないランナーです。今回のコラムで紹介するにあたって、「市民ランナー名鑑」という枠で扱って良いのかどうか迷ったのですが、元実業団選手という経歴を伺うよりも、親しみやすいランナーとして走ることをどのように考えているのかを聞きたいなと思ってインタビューさせてもらいました。

期待を裏切らない話も飛び出てきましたが(笑)そんな飾らない廣瀬さんに影響を受けたランナーはきっと少なくないでしょう。女性としてのお話もとても大事なことが多かったと思っています。

「楽しく走ることを続ける」という想いは廣瀬さんがお話することでとても説得力が出ますね。これからも廣瀬さんに大注目です。

(文責:宮川浩太)

December 9, 2019/コラム/