近年、陸上長距離界では”市民ランナー”の活躍に注目が集まっています。
“市民ランナー”として真っ先に思い浮かぶのは、未だに川内優輝選手ではないでしょうか。今春からプロに転向しましたが、彼がフルタイムで働く”市民ランナー”の立場で次々と結果を残していったことは陸上関係者のみならず、多くのファンに強烈なインパクトを与えてきました。彼に刺激を受けた市民ランナーも数知れず。そして、川内選手以外の市民ランナーにもどんどん注目が集まるようになってきたように思えます。
今年の日本選手権には市民ランナーの桃澤大祐(サン工業)選手が出場しています。また、都道府県対抗駅伝ではトップ集団に市民ランナーが複数名含まれる瞬間もありました。実業団という形が長く続いていた日本において、市民ランナーという活動の形は新たな可能性が開けるものであるように感じます。そこで、トップ市民ランナーの方々の実態を調査していくなかで、彼らがどういった工夫をして社会人生活と両立しながら走ることを続けているのか?にフォーカスさせたコラムをスタートさせようと思います。
第1回目は山形市役所に務める森谷修平さん。市民ランナーとして非常に高いレベルで競技を続けています。学生時代は箱根駅伝でエース区間の2区を走った実力者ながら、実業団に進まずに地元に戻り「市民ランナー」として精力的に競技を続けています。これまでの陸上人生や今のランニングスタイルなどについて色々と聞いてみました。
森谷 修平 プロフィール
《森谷 修平(もりや しゅうへい)》
所属 山形市役所
出身高校 東海大山形高校
出身大学 日本大学
《自己ベスト》
1500m 3分54秒59(社会人)
5000m 14分11秒06(社会人ベスト:14分15秒33)
10000m 28分52秒09(社会人ベスト:29分02秒46)
ハーフマラソン 63分42秒(社会人)
※1500mは高校生以来、ハーフマラソンは社会人になってから取り組んだもの。
《主要駅伝の成績》
全国高校駅伝 2008年と2009年に3区8.1075kmに二年連続出走。
箱根駅伝2011年3区、2014年には日大のキャプテンとして花の2区で区間9位の快走でチームを5年ぶりのシード権獲得に導く。
箱根駅伝がゴールじゃない
ー本日はよろしくお願いします。森谷さんは素晴らしい実績ですね
ありがとうございます(笑)大学までは競技としてがっつり箱根を目指して頑張っていましたからね。ただ、僕の箱根デビューは「ほろ苦」でした。大学1年生の時に3区でエントリーされたのですが、実は11月の全日本大学駅伝を走った後に故障していて、うまく練習ができない状態で不安の中本番を迎えることになってしまったんです。こういう時の不安って何故か的中しちゃうんですよね(苦笑)。トップが見える2位という好位置でタスキを持ってきてくれたのですが、身体が全然動かないままレースが進み、順位を9位まで落としてしまいました。悪い流れはそこから始まり、チームは最終的に最下位。その当時のことは今でも鮮明に覚えていますが、1年生ながら責任を感じました。
ー輝かしい経歴に見えても、色々あったんですね。
そうですね。いいことばかりじゃないです。でも振り返れば僕にとってとても大事な経験になったんですよね。
1年生で箱根を走ったあとは、長い怪我に悩まされました。良くなったかなと思って練習に戻ろうとするとやっぱり痛い。怪我が長引くと身体以上に心がやられちゃいます。リハビリや筋トレなど地味な取り組みをコツコツ続けることは苦手じゃないのですが、先の見えない苦しさは走ることへの想いを少しずつ削っていき、ある時ふとポキっと心が折れかかっちゃったんですよね。その時に陸上を辞めたいと母に本気で相談しました。
山形から上京させてもらい、好きな陸上をやってたはずがどんどん辛くなっていた自分の想いを、母は静かに受け止めてくれました。その時、母は励ますでもなく、やめることを勧めるでもなく「あなたの人生なんだから自分で決めなさい」と言ってくれたんです。
この言葉でハッとしました。誰かのために走ってる訳でもないしやらされてるわけでもない。やるなら最後までとことんやろうって吹っ切れたんです。そこから、地味なトレーニングも全てこなしました。先が見えなくても、やり続けるモチベーションをくれたのは紛れもなく母。怪我をして走れなかった長いトンネルの時期は今振り返ってもしんどかったですが、僕の人生の中ではとても大きな意味があったと思います。
ー上級生になった頃にしっかりまた走れるようになったんですね!
大学4年生の秋には5000m、10000mで自己ベストが出て、箱根駅伝前の3ヶ月間は今考えてもおかしいんじゃないかと思うくらい右肩上がりに調子が上がっていきました(笑)。そして本番では2区に抜擢。実は本来予定されていたのは3区か9区だったのですが、チーム事情から留学生のキトニーが山登りの5区を走ることになって僕が2区を走ることになったんです。2区を走る準備はしてなかったのですが、不思議と不安はありませんでした。1年生のころとは度胸が全然違ったと思います。キャプテンだったので責任ある走りをしなければいけないみたいなことも言われがちですが、その時の僕の想いは単純に「最後の箱根駅伝を楽しもう」ということだけ。それが良かったのかもしれません。
気持ちが前向きだとちゃんと結果がついてくるもんですね。結果的には前を行くランナーを2人抜いて区間9位。怪我で走れなかった2、3年生の時のカリを返すことができました。箱根路に良い思い出を残せたのはコツコツ努力してきたことが報われたと思ってますし、地味な取り組みの大切さを身にしみて感じました。
ちなみに、5区を走ったキトニーですが、山を登っている途中の給水で水を頭からかぶっているシーンがあったんです。「おいおい大丈夫か?(笑)」なんて仲間と話していたらペースが上がらないまま芦ノ湖に帰ってきて、声を掛けたら「サ、サムイ…」の言葉が返ってきたのは今だから言える笑い話ですね(笑)
キトニーで順位を稼ぐはずだったんですがそれができず。ただ、それでもチームは久しぶりにシード権を取ることができました。チーム全体の総合力を証明できたのが何より嬉しかったですし、だからこそ駅伝は魅力的なんですよね。
ーその後実業団に進むという選択肢はなかったんですか?
正直言って実業団という選択肢は全くなかったですし、今も後悔していません。元々、地元山形に貢献したいという思いが強かったので山形市役所で働く今のスタイルに満足してます。
また、高校時代の恩師である田宮先生の存在はとても大きいです。田宮先生も日大の出身なのですが、先生にとっての教え子を自分の母校に送り出したのは僕が”第一号”だったんですよね。自分を信じて母校に推してくれた先生にはとても感謝しています。そして、僕が怪我をして苦しかった時に一番支えてくれた母をはじめとする家族、今までお世話になったたくさんの山形の人達のことを想ったら、「走ることへの情熱」と「地元愛」は僕の中から抜けることはありませんでした。
僕の周りにも箱根駅伝を区切りにして走ることを辞めてしまった仲間やライバルはたくさんいます。そういった人たちを否定したりするつもりは全くないですが、僕にとってのゴールは箱根駅伝じゃありませんでした。今は「山形市役所所属の市民ランナー」として地元への想いを持ちながら走っていきたいと思ってます。
練習は工夫次第
ー普段はどんな風に練習をこなしているんですか?
基本的に仕事が終わった後に練習してます。早ければ18時過ぎから練習を始められますが、仕事で遅くなると22時や23時から練習する日もあります。その辺りは多くの市民ランナー仲間と一緒ですね。練習の中心はジョグ(4’00″~5’00″/km程度)で、ポイント練習は仕事や体の状態をみながら週に2~3回行うようにしています。
練習をこなす上で”メニューの柔軟性”は大切にしています。自身の身体の状態や、先にある試合から逆算したりしながら、その都度メニューを組み立てますが、天候や、身体の状態によっては設定タイムを落としたり、ポイント練習をスライドさせたり臨機応変に対応しています。”メニューの柔軟性”は場合によっては「ゆるさ」というと誤解されてしまうかもしれません。ただ、それは妥協ではなく「自分を悪い意味で縛り付けない大切な考え方」だと思うんですよね。部活動などで長く競技をやってきてたり、厳しい指導に慣れている選手は、この「ゆるさ」に違和感があるかもしれませんが、すごく大事な考え方で、なじめずに、やるかやらないかの両極端になってしまっている気がしています。
競技として陸上をやってきた人が社会人になってからも続ける一つのポイントはそういった思考をいかに柔軟に切り替えられるかどうかだと僕は思います。
ー月間走行距離はどれくらいですか?
月間走行距離は平均で400㎞程度なので、大学時代に比べればだいぶ減りました。でも、走行距離は気にならないですね。大会にはよく出ますが、どれもこれも記録や順位を狙って走るわけではなく、ポイント練習の一環で走ることも少なくありません。この前は5000mの記録会に3本連続でエントリーしましたよ(笑)学生時代にはやりませんでしたが、案外自分にはこの練習があってましたね。
走行距離は減りましたが、記録がガクンと落ちているわけじゃないです。5000mや10000mは自己ベストこそ出てないですけど、それに近いタイムは出せてます。これには自分自身が一番驚いています。社会人になってから何年かはうまくいかないことも多かったですが、試行錯誤の末に気づけました。
ー練習の中で何か工夫していることはありますか?
工夫というほどでもないですが、あまり練習をやらなくちゃという風に意識し過ぎず、ゆとりを持って練習しています。練習しなくちゃと思ってしまうと、時間通りに仕事が終わらなかった時などはストレスになっちゃいますからね。気持ちにゆとりを持つようにしたら23時にしか走り始められない時でも焦らなくなりました(笑)。
あとは、学生の頃のように常に仲間がいて競って走れるわけじゃありません。だからこそ、週末のレースを練習のようにして走ったりしてます。引っ張ってもらったり、一緒に走ったり、そういう刺激はやはり必要でそれを求めてレースに出てますね。
ー山形という土地柄、苦労することもあるのではないですか?
一番は雪ですね。冬は雪に閉ざされて外を走るのが難しくなることがあります。慣れているつもりでも、大学生の時は雪がほとんど降らない関東で過ごしていたので、山形に戻ってきて雪に覆われる冬に面食らいました(笑)しかも、山形はフェーン現象が起こるので夏場とてつもなく暑くなるんです。
気候コンディションが悪い時は基本的には割り切ります。お休みにしたり、軽めの動き作りや室内でのジョグにしたり、あるいはバイクトレーニングに充てる時もあります。練習は工夫と意識次第でなんとでもなるもんです。
ー体のケアはどうしていますか?
身体のケアとして治療院に行くのは月に一度くらいです。怪我で苦労した経験があるので、身体のケアは重要性は身にしみて分かっているつもりです。山形県は全ての市町村に温泉が湧いているほどの温泉大国です。練習やレースの後に温泉で汗を流すことはきっと他の人以上にやっているんじゃないかなと思います。お酒も大好きなので、温泉から上がった後に、その日の練習や試合の反省会をしたりします。もちろんおいしいお酒を飲みながら(笑)それも大事な心のケアですね。
山形県縦断駅伝が大きなモチベーション
ー森谷さんは何を目指して走っていますか?
まだまだ記録を伸ばしたいと思っているので、今年の11月に行われる上尾ハーフマラソンで62分台を出すことが当面の目標です。このレースは箱根駅伝に出る大学のメンバー選考レースになったりしているので、非常にレベルが高いんですよね。こういうレースの中で揉まれながら走ることもとても楽しいしやる気になります。
あとは、八王子ロングディスタンスという10000mの記録会も秋に行われます。ここで28分40秒台を目標にしていて、実際に出せれば大学生の頃を記録を超えます。大学生まで陸上競技をやってた選手でもなかなかその頃の記録を超えられないという人は多いと思いますが、ここまできたら数字の上でも越えたい。まだ20代なので、大学生の頃の”貯金”で走っているだろと思われちゃうかもしれませんが、自分としてはそんなつもりはないので、それを数字の上でも証明したいですね。
ー最も目標にする大会を教えてください
僕が特に大事にしている大会は、毎年4月下旬に開催される「山形県縦断駅伝」です。山形県を3日間かけて襷を繋ぐ春の風物詩。総距離は300km以上にもなり、県内11地区のチームに分かれて走る山形県の春の風物詩です。注目度も高いですし、僕だけでなく山形県内のランナーにとっては大きな目標になってるでしょうね。
春先の大会なので、そこにピークが合うわけではないのですが、毎年この駅伝が僕にとってのシーズンスタートになってます。そこでしっかり走って1年間のレースに繋げるということが僕の毎年のサイクルです。
ー森谷さんのモチベーションはなんですか?
市民ランナーになって改めて「楽しんで走ることの大切さ」を実感してます。試合で結果を残すために練習してますが、それがモチベーションかというとちょっと違うんですよね。やっぱり根本には走ることが好きだという気持ちがあって、そちらの方がモチベーションになっているかな。
市民ランナーになってからまた新しい繋がりもできました。今は自分で走ることも仲間と一緒に走ることも両方好きですし、楽しいですね。
ー森谷さんが一緒に走る仲間のことを教えてください
山形県には日本最強とも噂されている市民ランナー集団「強くなろーの会」があります。2017年にミズノエンペラーカップという駅伝大会で優勝しているので、”日本最速”は決して大げさじゃありません。メンバーの多くは学生時代に箱根駅伝や全日本インカレなどの主要大会や元実業団選手だった市民ランナーが先述の縦断駅伝のチームの垣根を超えて練習や試合でお互いに切磋琢磨しています。
市民ランナーになってからは一人で走ることが多くなりましたが、こうしてチームとして一緒に襷をつないだり、お互いを高め合えたりするランニング仲間の存在は本当の大きいなと実感しました。マラソンは個人スポーツと思われがちですが、根本的には違うと思うんです。「あいつが頑張ってるから僕も頑張ろう」みたいに目に見えない部分での繋がりがあるからこそ頑張れるところもあると思うんですよね。苦しいスポーツだからこそ、仲間の存在はとても大きいです。
強い”市民ランナー”として
ー箱根駅伝を目指した学生時代から市民ランナーになって変わったこと、変わらないことを教えてください。
少し上述しましたが、箱根駅伝がゴールだという選手は非常に多く、大学で陸上を辞めてしまう人がたくさんいます。そういうゴールの仕方も決して悪いとは思ってません。それくらい厳しい練習をみんなしているので、むしろそうなる方が自然なのかなとすら思います。
ただ、僕の場合は、箱根駅伝が全てでじゃなかったんですよね。大学にいた時もずっと『陸上で地元に貢献したい。活躍して目立ちたい(笑)』という思いがありました。気持ちの面では学生時代から全く変わってないですね。
変わったことと言えば「練習環境」と「立場」。市民ランナーになればメニューは自分で組み立てなければなりませんし、練習時間が確保できないことだってざらです。しかし、そういった環境を逆に、いかに楽しめるか、そういった考えを持てるか持てないかが、走れる選手と走れない選手の分かれ目だと思ってます。
ー最後に一言お願いします
ランナーにとっての目標や目的は人それぞれ。目指すものは違うと思いますし違っていいと思っています。ただ、工夫したり、時間をやりくりしながら走る市民ランナーだからこそ、根底にあるであろう「走ることが好き」ということはとても大切だと思うんですよね。
それを忘れちゃうと走ることほど苦しいスポーツはないです(笑)僕は目標に向かって頑張ることが好きですし、今は世代や住んでる場所を越えてさまざまな形で繋がれる時代なので、これまでの繋がりもこれからの繋がりも大切にしながら全国の市民ランナーの方達と一緒に頑張れたらなと思います。
編集後記
森谷さんと初めてお話したのは、今年の山形県縦断駅伝が終わった後の打ち上げでの時でした。
恐縮して何を話していいか分からないでいましたが、森谷さんは初対面の自分にとても気さくに話してくれて、朝まで一緒にいた人たちと走ることについて熱く語り合っていたのがとても印象的でした。本文中にもあるように、森谷さんは市民ランナーとして活躍される以前は、駅伝の名門チームで活躍されていました。
「自分はこのやり方で強くなってきた。」というこだわりもある中で、市民ランナーになってから与えられた環境に合わせて試行錯誤しながら柔軟に変化させて、学生時代と変わらない高いレベルを維持させていることに興味を持ち、インタビューをお願いしました。
市民ランナーの方でも目標に対してストイックになり過ぎるあまり、怪我をしてしまったり、空回りしてしまったりした経験がある方も多いのではないでしょうか?そんな時こそ、一度立ち止まって走ることの楽しさや、森谷さんであれば地元に貢献したい、目立ちたい(笑)のような原点(家族にかっこいいところを見せたい、おいしいお酒を健康的に飲みたいなどなど…)に立ち返ってみるのもいいのではないのでしょうか?
目標に対して真剣であるからこそ、気持ちに余裕をもって楽しんで走ることが、市民ランナーが楽しく真剣に走る秘訣なのかもしれませんね。
(文責:土屋隆)