多くのアスリートが引退を発表した2021年シーズン。オリンピックイヤーという節目を区切りに考えていたアスリートが多かったということかもしれません。
今回インタビューさせてもらった萩原選手もその一人です。陸上界のニューヒロインとして期待される中で、度重なる怪我によって苦しい想いをたくさん経験されてきました。
それでも「笑顔」を絶やさず走り抜いていたその明るいキャラクターにたくさんの人々が元気をもらったことでしょう。
今回はそんな「萩ちゃん」こと萩原選手へのインタビューです。
どうぞ、ご覧ください!
萩原歩美 プロフィール
《萩原歩美(はぎわらあゆみ)》
出身 静岡県
経歴 常葉学園菊川高校ーユニクロー豊田自動織機
《自己ベスト》
10000m 31分36秒04
ハーフマラソン 1時間10分16秒
フルマラソン 2時間26分15秒
《主な成績》
2013年 日本選手権 女子10000m 3位
2014年 日本選手権 女子10000m 3位
2014年 仁川アジア大会女子10000m 銅メダル
2014年 国際千葉駅伝 6区区間賞(日本チーム優勝)
2015年 日本選手権 女子10000m 4位
2020年 日本選手権 女子10000m 6位
2021年 大阪国際女子マラソン 5位
陸上人生の歩みは人との出会いから
>どんな幼少期を過ごしてまいましたか?
静岡県静岡市に生まれました。実家の近くには海も山もあり、自然豊かなところでしたね。いつも友達の家に寄ってから学校に行っていたので知らず知らずのうちに走ることが日常になっていた気がします。
実は、以前トレーナーさんに脚を診てもらってた時、「坂の上に住んでたでしょ」と言われたことがあるんです。実家はまさに山の上にあるので「えー、なんで分かるんですか?」ってすごく驚きました。私の体のベースはきっと生まれ育った街の環境が作ってくれたんでしょうね。
小さい頃から運動は苦手じゃなかったので、小学校のマラソン大会は常に3位以内でしたし、バスケットボールもやっていました。でも、実はバスケットボールの練習ってあまり好きではなくて、そこだけはなかなか上達しませんでした。
小学6年生になる年の春に県内の大きな大会に出たことがきっかけで本格的に陸上競技を始めましたが、練習はほんと楽しかったですね。なので、中学校に進学して部活を選ぶ際にも、迷わず陸上部に入りました。バスケットボールは結局なかなか上手くなれなかったので(苦笑)
>なるほど笑。でも、その時の選択が今の人生につながってるってことですね。
はい。私の陸上人生の中でとても大きな影響を受けたのが、当時陸上部の顧問だった岩本穣兒先生です。とにかく厳しい方で、人としても陸上競技選手としても、私の基礎はその頃に培われたと思ってます。
先生とのエピソードで今でも鮮明に覚えているのは、中学1年生の時に出た東海大会での出来事です。私の不注意で、ホテルにストップウォッチを忘れてしまいました。それを知った先生から「陸上選手にとって大切な道具を忘れるなんてけしからん!!」とひどく叱られました。
きっと先生はものを大切にすることを伝えようと厳しい言葉をかけけくれたんだと思います。陸上競技って単純なスポーツなので、小さな積み重ねも、気の緩みも、積もり積もれば大きな差になって現れてしまいます。ストップウォッチを忘れるという事実は小さな出来事かもしれませんが、その積み重ねが先々の結果を変えることだってあります。そんなことを先生は私に伝えようとしてくれていたのかもしれません。
>中学生のころの競技成績はどうだったんですか?
1年生の頃から、東海大会に出ることができましたし、練習は男子に混ざって走っていました。このまま順調にいけば1年後か2年後には全中(全国大会)に行けるだろうなと思っていたんですけど、怪我の影響で結局大きな大会で結果を残すことはできませんでした。
私の場合、体のリズム的に春がなかなかうまくいかないことが多いんですよね。何度も疲労骨折を経験しています。逆に、秋は結構走れるようになるので、駅伝のようなロードは得意だなと思っていました。
>高校は静岡県下でも有数の強豪校である常葉学園菊川高校(現常葉大学附属菊川高校)に進学されたんですよね。
元々中学生の頃から、将来は実業団選手になりたいなと思ってたんです。それを考えると、その目標が一番叶うなと思ったのが常葉菊川高校でした。
市町村対抗駅伝で一緒になった先輩から誘ってもらっていましたし、1つ上の先輩が通っていたことも決め手になりました。練習自体はすごくしんどかったという記憶はなかったですが、春と夏にやっていた強豪校との合同合宿はすごくきつかったです。インターハイや駅伝の上位になるような強豪校が集まっていました。
チームの目標は都大路(全国高校駅伝)でしたし、実際に3年生の時に1区を走らせてもらって区間14位になってます。でも個人的に印象に残っているのは都道府県対抗駅伝のほうかな。中学の時は走りたくても走れなかった駅伝だったので、その駅伝に3年間続けて選ばれたことはすごく嬉しかったです。
今年はコロナの影響で、男子の都道府県対抗駅伝が中止になってしまいました。色々な世代が集まる駅伝なので、中高生にとって都道府県対抗駅伝は本当に貴重な経験ができる大会なので、中止になってしまったことは本当に残念です。でも、頑張っていればまた必ずチャンスはくるので、あきらめないで頑張って欲しいなと思います。
>高校生の頃も怪我が多かったんですか?
小さい怪我や貧血はありましたが、長期離脱するような疲労骨折は1回だけですかね。駅伝ではコンスタントに結果を残すことができたのですが、個人では目立った成績を残すことはできませんでした。ただ、秋になるとトラック種目でも記録が残せていたので、「種目」よりも「季節」の相性はあったかもしれません。
あと、食べることが好きなので、怪我をすると体重と練習のバランスが崩れてしまって、なかなか調子を取り戻すことができませんでした。
日の丸を意識した実業団時代
>高校を卒業した後、すぐに実業団に進まれたんですね。
はい、実業団を選ぶ時、実は福士さんがいるワコールも考えていました。憧れの選手と同じチームで走ることもいいなと思ったんです。でも、せっかく実業団にすすむなら、福士さんと同じチームで頑張るよりも、駅伝で福士さんと同じ区間を走ってライバルとして勝負したいと思い、ユニクロに進むことを決めました。
また、当時からワコールは強いチームだったので、自分の力に見合ったチームでじっくり力をつけていこうと思ったのもユニクロを選んだ理由です。
>チームに加入して早々に監督の交代があったと聞きました。
はい、ユニクロに進むことを決めたもう一つの理由が監督の人柄でした。なので、退任することを聞いた時にはとても驚き、そして不安になりました。毎日泣いてたくらいです。
ここでも、色んな縁が繋がるものです。岩本先生が新たにユニクロの監督に就任する鈴木さんと大学の同級生で、私のことを思って連絡をとってくれたんです。そして「あいつなら大丈夫」というお墨付きをくれました。なので、最後は安心して実業団で頑張ることができました。
監督が変わったことで、それまで考えていた「じっくり力をつけていこう」という思考から「クビにならないように頑張ろう」という思考に変わりました。もう毎日必死ですよ。チームに加入した当初は5〜6番手くらいの走力だったので、その頃は練習で先輩に勝ってやる!という気持ちで毎日練習してました。でもそのおかげで毎日少しずつ強くなっているという実感が持てたのも事実です。
夏頃になると先輩たちと同じかそれ以上の練習ができるようになっていましたし、それでも足りないと思ったら監督に「もう少し走ります!」って叫んでプラスαの練習もしていたくらいですからね。ほんと負けず嫌いでした。
>一気に力がついたような感じですね。
そうですね。練習での「成果」が試合の「結果」として形になったのは、社会人1年目の秋にあった全日本実業団でした。私にとって初めて出場する個人としての全国大会でしたが、ジュニアの3000mに出たて4位になれたんです。
これまでなかなかトラックで結果が出せなかったので、4位という順位はとても自信になりました。将来日の丸をつけて走りたい!ということを意識し始めたのはその頃からです。
>2013年、2014年と日本選手権の10000mで3位入賞されてますよね!
当時は走れば自己ベストが出るような状態だったので、非常に勢いがあったと思います。ただ、日本のトップ選手と戦うようになった改めて感じたのは”日本一”になることの難しさでした。
やっぱり周りの選手は強いし簡単に一番にはならせてくれない。周囲からトップ実業団選手というふうに認められるようになったとしても、日本一の選手にはなかなかなれなかったです。
>萩原さんにとって印象深いレースはありますか?
アジア大会の銅メダルや国際千葉駅伝でのアンカーで逆転優勝というイメージが私には強いかもしれませんが、強く印象に残っているのは2015年の日本選手権です。その時は非常に良い練習ができていて、よし、今年こそ勝てると思った年でした。
自信満々でレースに臨んだはずだったのに、蓋を開けてみると思いがけずスローペースでレースが進んでしまいました。そこで迷いが出ちゃったんですよね。自分から前に出ていくことができず団子状態のままラストまでもつれ、最後ペースが上がった時に対応ができませんでした。その年は北京で行われる世界選手権の代表選考会にもなっていたので3位までに入れば日の丸をつけて世界選手権に出られることになっていたんです。ところが、ラスト90mでかわされてしまい、スルスルと代表の切符が逃げていきました。ゴール後はなかなか立ち上がれなかったですし、今振り返ってみてもその時のレースが一番悔しかったです。
2015年の日本選手権を冷静に振り返ってみると、とてもいい練習ができていたんですけど、その一方で少し無理をしているところもありました。土台が十分にできていなかったにもかかわらず、スピードばかり求めてガンガン追い込んでいたような感じです。
日本選手権が終わった後は、原因不明の不調に襲われました。痛みじゃないんですけど、なぜか練習がうまくこなせないというような状態。それでも無理やり練習をこなしていたら、今度は坐骨神経痛に悩むようになりました。どんどん歯車が噛み合わなくなったのはこの頃です。
結局、翌年の日本選手権は勝負にもならず、初めてレースで2周回遅れになるという経験もしました。痛みや不調で練習がうまくこなせないまま、レース直前の1ヶ月で無理やり仕上げて出たので、必然的な結果だったと思いますが、歯車が噛み合わない感じがずっと続いていました。
その頃から徐々に環境を変えて競技に取り組んでみたいと考えるようになりました。
>2017年に豊田自動織機に移籍されたんですね
2016年の12月にユニクロを辞め、しばらくは地元に戻って一人で練習をしていました。その時、高校の監督が豊田自動織機を勧めてくださったんです。豊田自動織機は当時からとても力のあるチームでした。高校を卒業して実業団に進む時は、「自分の力に見合ったチームを」と思っていましたが、今度は「強いチームの中で揉まれてみたい」と思ったのが移籍先を豊田自動織機に決めた理由です。
移籍後すぐの地区実業団のレースで優勝できたので、順調なスタートでしたが、うまく噛み合わない感じから完全に抜け出せたわけではなかったです。練習の出来/不出来にけっこう波がありましたし、急に足の力がぬけて上手く走れなくなる「ぬけぬけ病」にも悩まされるようになりました。
そして、移籍した2017年の実業団駅伝は初めて登録メンバーから外れてしました。これまで駅伝当日にメンバー変更で走れなかったことはあっても、事前の登録メンバーには必ず入っていて何かしらの形で「選手」という立場にいました。でも、その時は登録メンバーにも名前がなく、完全な「サポートメンバー」という形になったんです。
若い頃は勝ったり負けたりすることで、気持ちが大きく動くこともありました。ただ、その頃とは違って、”弱い自分”もちゃんと受け入れられるようになっていました。ちゃんと気持ちの整理をつけて今自分がやるべきことに集中できるようになっていたんです。一喜一憂しなくなったのは、競技を続けていく中で身についていった強さなのかもしれません。
>強い仲間に揉まれて萩原さんもアスリートとして強くなっていったんですね。
そうですね。レベルが高いチームだったので、いい意味でお互いにライバル意識が強かったです。特に、クイーンズ駅伝で3位に入った2020年はとても雰囲気が良く、すごく良いチームでした。
そして、同じ2020年の日本選手権では私個人も10000mで自己ベストが出ました。もう10000mでベストを更新するのは難しいかなと思っていたこともあったので、そのレースも本当に感慨深かったです。ベストを更新したこと自体はもちろん嬉しかったですが、それ以上に監督やマネージャーがすごく喜んでくれた姿を見て、あぁ頑張ってきてよかったなとすごく嬉しくなりました。
z>勢いそのまま初マラソンに臨んだんですね
はい、日本選手権の後は少し痛みがあったんですけど、初マラソンに向けてはいい練習ができていました。レースでは思った以上に足が動いて、自分が想定していたよりも良いタイムが出たんです。
実は、この大阪マラソンを引退レースにするつもりで臨んでいて、そのことはチームにもすでに伝えていました。ただ、マラソンの結果を受けて、なんだかこのままやめちゃうのがもったいないなと思っちゃったんです。監督からも現役続行を勧められたので、本当に悩みました。
チームが私のことを求めてくれたのは本当に嬉しかったですし、最終的には引退を「撤回」。現役を続行することを決めました。
>相当な覚悟があったんじゃないですか
そうですね。一度は引退を決意した身だったので、現役を続行するにあたって自分の中で二つの目標を掲げました。
一つ目は2021年に静岡で開催される日本選手権でしっかり結果を出すこと。そして、二つ目はもう一度マラソンにチャレンジすることです。地元・静岡に恩返ししたかったですし、初マラソンはコロナ禍の影響もあって無観客の中で行われたので、今度は沿道に応援の人がたくさんいる状況下でしっかり走りたいなって思ったんです。
ただ、ここでも思わぬ怪我に悩まされてしまいまいました。目標にしていた日本選手権の4日前に急に足が痛くなってしまったんです。
>萩原さんのnoteにも当時の苦しい胸のうちが記されてましたね。
はい、引退を撤回して現役を続行するにあたって、地元での日本選手権は「逃げないための目標」でした。なんでこのタイミングで足が痛くなっちゃうんだろう・・・それまではいい練習ができていたのに・・・と「なぜ?」という思いばかりが頭を駆け巡り、本当に悔しかったです。10年振りの地元レースだったので、やっぱり何がなんでも出たかったというのが本音です。
気持ちの整理をつけるのは大変でしたが、悔しいという感情があるうちは、まだまだ頑張れるのかなと思うようにもなりました。目標の一つは叶わなかったけど、マラソンを走るというもう一つの目標があったので簡単な道のりではないけど、また頑張ろうと思えるようになったんです。
出られなかった日本選手権の10000mは一人で観戦しました。たくさんの好記録が出て、オリンピックへの切符を二人の選手が掴みましたが、私が最後まで目で追いかけていたのは福士選手でした。私がずっと尊敬している”その人”は最後尾でゴールしても笑顔を絶やすことはありませんでした。
憧れの福士選手を目指して
>萩原さんといえば、福士選手に対する憧れをいろんなところでお話されていますが、いつ頃から憧れていたんですか?
実は昔は福士選手のことはそこまで好きじゃなかったんです(笑)
小学生の頃になかなか寝付けなくてリビングに行ったら、父が陸上のレースを見てました。何の大会だったか覚えていませんが、その時のレースに出ていたのが福士選手でした。
レース自体はあまり良い結果じゃなかったんですけど、福士選手は走り終わったら笑いながらインタビューに答えてました。最初それをみたとき、なんでこの人は負けたのに笑顔なんだ!?ってあんまりいい気分がしなかったんです。それが私の福士選手に対する第一印象(笑)
でもそれがきかっけで、福士選手の結果や言動に注目するようになりました。気づいたら他の陸上選手とは違う雰囲気やオーラにすっかり魅了されていて、私も福士選手みたいになりたいなと思うようになったんです。
>実際に初めて福士選手とお会いした時のことは覚えていますか?
そうですね、日本代表レベルの有名選手だったので、私のことは知らないだろうなと思っていたんですけど、実業団時代にボルダーへ合宿に行った時、たまたま同じ場所で福士選手も合宿をしていたんです。その時はお会いできなかったんですけど、福士選手が私のことを話題にしていたみたいで、その時「あっ、私のことを認識してくれてるんだ」と思ってめちゃくちゃ興奮しました。直接お会いしたわけではないのですが、それが最初の思い出ですね。
>その後は色々と交流があったんですね。
実際に同じレースで競うようにもなりましたし、お会いするたびにいつもお話しさせてもらいます。最近だと2021年のクイーンズ駅伝の時に中継所でお会いしたのですが、選手ではなく付き添いとして中継所にいた私をみて「あれー、なんでこんなところにいるの?走んないとダメじゃーん」と大きな声で話しかけられました。
福士さんらしいですよね。彼女に悲壮感なんて皆無。それが福士さんの強さの秘訣なのかなと思います。
>福士選手の引退レースは大阪国際女子マラソン(ハーフ)となりましたが、萩原選手も今年同じレースに出られましたね。
11月の時点で坐骨神経痛が強く出ていて、駅伝にも結局出られませんでした。なので、普通に考えればフルマラソンを走るのであれば、より長く準備期間が取れる東京や名古屋の方がよかったと思います。
でも、公にはしていませんでしたが、もしかしたらこれが引退レースになるかもしれないと思っていて、それならやっぱり大阪だろうなと考えて、エントリーすることを決めました。
その時点で大阪まで1ヶ月しか準備期間は取れなかったですし、納得できる練習とはほど遠い状態でした。
>練習があまり積めなかったと思いますが、レース前は不安でしたか?
スタートラインに立った時は不安というよりも、逆に「今日はやってやるぞ」というワクワク感の方が大きかったです。でも、練習は正直ですね。序盤で脚に痛みが出て、我慢しながら走っていました。
それでも、ハーフマラソンの部に出ていたランナーとすれ違うたびに、「萩ちゃん頑張れ!」って色々な人が声をかけてくれたんです。そういった声がすごく力になって、諦めちゃいけないなと思いながら一歩一歩前に進むことができました。
ラスト1kmはジョグのようなペースにまで落ち込んでいて、招待選手としては恥ずかしい走りになっていましたが、それでもみんな温かい声をたくさんかけてくれて、頑張ってきて良かったなとその時つくづく思いました。
最後は辛いことやしんどかったことを急に思い出しましたが、それでも認めてくれる人もこんなにいるんだということを再確認した途端、込み上げてくるものがありました。
でも、最後は涙のゴールよりも笑顔のゴールのほうがやり切った感があるなと思っていたので、ゴシゴシって目を擦ってにっこりゴールしました。それが私らしいマラソンだから。しんどい42.195kmでしたが、「あー、終わったなぁ。気持ちいいマラソンだったなぁ」と思いました。
テレビには私のゴールシーンが映ることはなかったんですけど、EKIDEN newsさんがツイッターで上げてくれたゴールの写真にものすごく大きな反響をいただいて、「萩ちゃんのあのゴールはすごく良かったよ」とたくさんの人から言ってもらいました。自分が頑張ってきたことはこういうところに出ているんだなと感じられました。
「萩ちゃん」が描く陸上競技のこれから
>萩原さんは現役選手としては珍しくSNSを積極的に活用して発信されていましたよね。
そうですね。昔から人と話をするのが好きだったので、逆にみんながどんなふうに思っているかというのも聞きたいなって思ったました。また、私自信は競技で悩んだ時にいろんな人の意見を聞いて乗り越えてきたというのもあったので、他の選手にもそういう感覚を味わってもらいたかったんですよね。さらにスポーツ選手って、ファンの人たちがいてこそ成り立っているという側面もあるので、今の時代にあった返し方があるんじゃないかなとも思ってたんです。
そんな時にSNSを使えば何か面白い事ができるんじゃないかなと思い、ためしに始めたみたんです。そしたらいろんな人が集まってきたくれて、すごく面白い空間になりました。
>周りの反響はどうでした?
実業団選手もやりたいって思っている人が多いのか、「萩ちゃん頑張ってるね」と気にしてみてくれる人が多かったです。所属もみんなバラバラで、置かれている環境が全く違う人が集まっていたので、意見交換をしたことがすごく刺激になりました。
>周りからの反応はポジティブなものが多かったんですね
「変人集団」だとはよく言われましたけどね(笑)でもいろんな人がSNSを通してのやりとりを楽しんでくれましたし、それを通して出会ったメンバーが集まって、「萩ちゃん駅伝部」というコミュニティができました。
チームの垣根を越えて、みんなで意見交換をしたり、やり取りをしていく中で、ちょっと一般的なものとは違う「仲間意識」が生まれました。そして「ライバル意識」も生まれたかな。このメンバーが頑張ってるから自分も負けてられないなというような感覚です。
コミュニティが立ち上がった当時はコロナ禍で、なかなか大会が開催されなかったり、ソーシャルディスタンスをとりましょうという空気感がとても強かった時期でした。だからこそ、ファンの方々がコミュニティを楽しんでくれていたのが純粋に嬉しかったです。
>2022年3月1日に競技の引退を発表されました。これからどんなことをやりたいと考えていますか?
実業団で競技をし始めた当初は、将来的に指導者になりたいなぁと思っていました。そういう道もいいなと思っていたのですが、今の時代はいろんなことができるし、いろんな形でもっとみんなが陸上競技を楽しめる環境であったらないいなと思うんですよね。
実業団選手や学生など”競技者”として走っていると、怪我をしてしまったり、指導者とうまくコミュにケーションが取れなかったりとと、色んなところで悩んで壁にぶち当たり、うまくいってないことが珍しくありません。そういった選手をたくさん見てきました。今後はそういう人たちの手助けをしてあげたいなと思っています。
そして、陸上競技って他のスポーツに比べると選手とファンの関係性が薄い、交流もあまりありません。簡単にいうとエンタメ性が足りていない状態なんですよ。もう少し違う形というか時代にあった楽しみ方があってもいいんじゃないかなと思うんですよね。
OTT(オトナのタイムトライアル)のように、レースに出る人はもちろん、主催者、ペースメーカー、ボランティアみんなを巻き込んで楽しめるようなイベントはすごく素敵だなと思います。私も人と人との繋がりでここまできたので、そういったことを大切にしながらこれから活動していきたいと思います。
編集後期
アスリートの人生にはひとに影響を与えるようなドラマが詰まっています。その中には自ら語ることを積極的にしてこなかったこともあるかもしれませんが、苦しかったことやしんどかった想いも聞くうちに、自分もぎゅっと胸が締め付けられるような感じがしました。
笑顔が「周り」と「自分」にどんな影響を与えてくれるかを身をもって理解しているからこそ、第一線から身を引く”その時”は笑顔で終わろうと身体が反応したのかもしれません。
唯一の後悔は、今回のやりとりの中で最後まで「萩ちゃん」と呼ぶことができなかったことでしょうか(笑)「萩原選手」はこれから「萩ちゃん」としてエンタメ感あふれた陸上競技を作り上げてくれる重要なキーパーソンになってくれると思います。
社会状況的に、なかなか直接お会いする機会が作れませんでしたが、いつかお会いした時はしれっと「萩ちゃん」呼びにチャレンジしてみたいと思います。
(文責:宮川浩太)
April 6, 2022/コラム/