INEOS 159〜人類が挑戦した「フルマラソン2時間切り」に見たスポーツの未来

人類はフルマラソンで2時間を切れるのか?

素朴な疑問でもあり、夢でもあったでしょう。人間の限界を知ろうとする行為はスポーツの根本的な理念。それを科学の力がサポートして証明しようとすることは不自然なことではないですし、今回のINEOS159は決してただのマーケティング戦略に止まらなかったのではないかと僕は思います。

そもそも、どんなに科学の力が進歩したとしても、走るのは生身の人間。それまでに積み上げてきた過酷なトレーニングは周囲の人間の想像をはるかに超えるものです。悠々と走っている姿はそんなトレーニングに裏打ちされたものなので、「徹底的にサポートを受けた今回のレースは本来のマラソンじゃない」という論調にはいささか違和感を覚えます。素直にその偉業を讃えるとともに、人間の可能性を垣間見せてくれた彼と彼をサポートしたメンバーには心から敬意を払いたいなと思います。

 

日本では大型台風が吹き荒れていた真っ最中だったので、この挑戦に対する注目度はもしかしたら本来的なそれとは違っていたかもしれません。それでも、事前の告知も十分になされていたので、熱心なファンや関係者は当然注目していたでしょう。記事ではキプチョゲのこの偉業を「月面着陸」になぞらえて伝えています。

私的考察が中心になりますが、今回のINEOS 159を振り返っていきたいと思います。

 

そもそもINEOS 159とは何だったのか?

日本から遠く離れたウィーンで開催された今回のチャレンジ。Youtubeでもライブ配信され観客を入れたレースは、2017年の5月にイタリアのモンツァで行われた「 Breaking2」を踏まえた上で、確実に2時間切りを狙った挑戦だったことでしょう。キプチョゲの走りは公式HPに動画でも紹介されていて今でも見ることができます。まずはこの挑戦の詳細を、改めてまとめてみました。

※情報バイアスをできるだけ避けるために、引用や孫引きが多くなりますがご容赦ください。

INEOSとは?

INEOSとはイギリスのロンドンに本社を置く化学会社。1998年に創業し、現在では世界10傑に入るほど強大な企業で、事業は燃料、潤滑油、包装材、食品、建設業など多岐にわたります。今回はキプチョゲのフルマラソン2時間切りという挑戦を支援する形でスポンサーとなっていましたが、スポーツに対してはこれまでにも積極的に関与し、今年の3月には「チームスカイ」の後継スポンサーに名乗り出て、「チームイネオス」を結成しました。

また、過去にもスイス2部のサッカークラブ「FCローザンヌ・スポルト」のオーナーとなったり(2017年)、「海のF1」とも称されるヨットレースの最高峰「アメリカズカップ」に出場するために「チームイネオスUK」を立ち上げたり(2018年)してきたようです。

 

 

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@wout.poels: forever making us laugh 😂 #TDF2019 @eganbernal

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Breaking2との違いは?

今回のチャレンジと比較されるのが、2017年の5月にイタリアのモンツァで行われた「Breaking2」。こちらはナイキが企画したプロジェクトであり、記録を出す上でその阻害要因となる様々な条件を徹底的にコントロールして記録を狙うというこれまでにないプロジェクトでした。今回のINEOS159もこのプロジェクトがベースになっていることは言うまでもありません。

2017年のBreaking2では、キプチョゲの他にゼルナイ・タデッセ(エチオピア)、レリサ・デレサ(エチオピア)の2名も参戦。しかし、実際に2時間切りに肉薄したのはキプチョゲだけでした。しかも、前回は”チャレンジャー3人”に対してペースメーカーは 29人、今回は”キプチョゲ1人”に対してペースメーカーが41人(6人が補欠)という充実ぶりです。違いがあると言うよりも、前回以上の条件を揃えたと言う方が正確かもしれませんね。また、

ちなみに、Breaking2の時に発表されたのが、ランニングシューズ界に革命を起こしたナイキの厚底シューズです。ヴェイパーフライというと、今では非常に有名なシューズですが、その知名度を上げたのは、まさにこのプロジェクトに他なりません。

 

 

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Eliud Kipchoge – 2:00:25 The barrier just got that much closer. #Breaking2 #JustDoIt

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今回のINEOS159も企業のプロモーションだと言われるのはそのためでしょう。その側面も当然あると思いますが、個人的には今回の挑戦も「動機は善」だと思っています。人間の限界に挑戦する瞬間を見てみたいと思ってあれだけの観客が集まっていたわけですし、もはやそれは否定しがたい事実ですよね。

ちなみに、今回登場したシューズは「α-FLY」と呼ばれるバージョンのヴェイパーフライです。この2年間でナイキの厚底シューズはものすごいスピードで改良を重ね、世の中に広まっていきました。シューズに注目していた人も多いでしょう。

 

 

フルマラソン「2時間切り」に見たスポーツの未来

かつて、スタンフォード大学のマーク・デニー教授は2008年にThe Journal of Experimental Biologyの中で「人間がフルマラソンで2時間を切ることは難しい」と言う論文を発表しました。過去のデータを回帰分析した統計学に基づいた論調でしたが、今回はそれを形上覆したものと言えます。

もちろん、その当時マーク・デニー教授が想定していた条件をはるかに凌ぐ「好条件」で走ったことは、相当のプラス要因に働いたでしょう。それでも「壁を破ること」が人類の社会的欲求の一つと考えれば、人智と科学の粋を集めた結果の記録は面白みがあっていいなと思っています。

このプロジェクトに対しての賛否両論が起こることも当然の反応だと思います。ただ、人間の限界にチャレンジしたエンターテイメントと考えれば、このプロジェクトをもっと気楽に見ることができるのではないでしょうか。個人の価値観によるものなので、これ以上の深掘りは避けたいと思いますが・・・

そもそもフルマラソンは自然と戦うスポーツ

今回の挑戦を見ていると、改めてマラソンは自然と戦うスポーツなんだなということを実感しました。日差しが強く照りつけようが、雨が激しく降っていようがレースは開催されます。暑さ寒さの好き好みや得手不得手はあるので、レース当日がどんな条件になるかは自らがコントロールしえないところでもあります。

ただ、マラソンは自然の中で行うスポーツ。天気、気温、風、ペース変化、路面、カーブ(折り返し)、給水、周りのランナーの影響など、自分でコントロールし得ない不確定要素の中で、自分なりの目標に向かって走ることにマラソンの面白みがあるのではないかと思っています。きっと多くのランナーはなんだかんだ言いながら、そのこと自体も楽しんでいます。それでいいんですよね。

今回の挑戦の見方を変えれば、公式の世界記録を出すという数字上の結果を求めたわけではなく、人類が徹底的にサポートしたとすれば、どれば速く走ることができるか?という純粋な興味を満たすような挑戦だったのではないかと思います。言い訳となる要因は徹底的に排除し、これ以上ない条件を作って走りました。キプチョゲはすごいプレッシャーだったでしょう。

今回の挑戦でもっとも高い壁になっていたのは、もしかしたら「メンタル」だったのかもしれません。それも表には出さず、淡々と走り続けて見事サブ2を達成したキプチョゲは本当にすごいことをやってのけたんです。実際のレースでは今回ほど条件が整えられることはありませんが、どう言った形であれフルマラソンで2時間を「切ったことがある」という実績が、キプチョゲの凄みやレースの中での存在感を今後ますます高めることになるでしょう。

キプチョゲはこれから何を目指すのか?

今回は記録への挑戦ということで、淡々とレースが進んでいきました。一切の無駄を省いた特殊なレースは、抜きつ抜かれつのMGCと比べると、退屈なレース展開だと思った方もいるかもしれません。Youtubeのライブ配信も英語の放送でしたし、駅伝やマラソンの中継のようにエピソードが紹介される放送に慣れてると、本当に好きじゃないとあの映像を見続けるのは大変だったかもしれませんね。

来年はいよいよ東京オリンピックです。世界のトップアスリートが集うスポーツの祭典が自国で開催されると考えると、非常に楽しみです。キプチョゲはリオオリンピックの金メダリストとして、フルマラソンの二連覇をきっと狙ってくるでしょう。今回の結果を受けて、圧倒的な金メダル候補になるかと思いきや、そんなに盤石な戦況を築けるほど甘い戦いにはなりそうにありません。

INEOS159の2週間前に行われたベルリンマラソンでは、ケネニサ・ベケレがキプチョゲの世界記録にあと2秒と肉薄する快走。また東京の暑さは過酷を極めるので、その影響がどのような形でレースに影響を及ぼすのかはわかりません。

今回「速さ」を証明したキプチョゲ。彼がこれからのレースの中で「強さ」を見せつけられるかどうかがとても楽しみです。

October 14, 2019/コラム/