「平凡」な積み重ねが生んだ「非凡」なランナー
市民ランナー名鑑 #3 中村高洋

異彩を放つランナーが鹿児島にも一人います。

彼の名前は中村高洋。全日本実業団ハーフマラソンでは最後まで先頭集団に食らいつき自己ベストを更新しましたが、彼はフルタイムで働く市民ランナーです。高校時代までは無名の中距離選手ながら、順調に記録を伸ばし続けてきて、今では日本のトップ選手と肩を並べるような活躍ぶりです。

寡黙で穏やかながら、勝負強い彼はどんなランナー人生を歩んできたのか?市民ランナー名鑑#3は中村高洋さんにお話を伺ってきました。どうぞご覧ください。

 

中村高洋プロフィール

《中村高洋(なかむらたかひろ)》
所属   京セラ鹿児島
出身校  小松高校
出身大学 名古屋大学

《自己ベスト》
1500m          3’52″79(2006.05.12 東海インカレ)
5000m        13’57″24(2019.05.04 ゴールデンゲームズinのべおか)
10000m      28’43″29(2018.11.24  八王子ロングディスタンス)
10マイル     46’56     (2018.12.02  甲佐10マイル)
ハーフ       1:01’39     (2019.02.10  全日本実業団ハーフ)
マラソン   2:14’25     (2018.02.25  東京マラソン)

《主な成績》
2019年 実業団ハーフ 9位
2019年 都道府県対抗男子駅伝 3区区間9位
2017年 鹿児島マラソン 3位
2007年 日本学生ハーフ 4位
2006年 出雲駅伝 1区12位
2004年 全日本大学駅伝 1区22位

 

走ることが日常だったジュニア時代

ーどんな幼少期を過ごしたんですか?

石川県の寺井町(現能美市)というところで生まれました。九谷焼で有名なところですが、地方の田舎町なので都市部のように娯楽が溢れているわけではなくのびのびと育ててもらったと思います。父が熱心な市民ランナーだったこともあって、気がついたら小学校3年生ごろに地元の陸上クラブに入っていました。それが僕の長いランナー人生のスタートです。小学生だったので100m、走幅跳、1000mと全ての種目に出てましたが、一番得意だったのは1000m。小学6年生のときに3分23秒でした。頑張って出した記録だったので、きっと相当嬉しかったんでしょうね。当時の記録はよく覚えてます。

中学生になったら部活動が始まったので、ここでも迷わず陸上部を選びました。理由はとくにないというか、自然の流れでしたね。そんな自分の性格を見透かしたかの様に、緩くもきつくもない部活動だったので楽しい思い出ばかりです。ただ、レースになったら大抵飛び出して先頭を走るようなタイプだだったので、レースになると顔つきが変わるねとよく言われてました。

隣町に陸上競技場があったので土曜日は自転車で30分ほどかけてみんなで練習に向かってました。そこで練習していた隣町の中学校が強くて、駅伝で全国大会に出てたんです。すごいなという気持ちもありましたが、それ以上に別世界の話のように思っていて、彼らはどんな世界を見てるんだろうという好奇心のような感情のほうが強かったです。

ー高校時代はどんな学生だったんですか?

高校は県内でも進学実績の高い公立高校に進学しました。そしてここでも何も疑わずに陸上部へ入部。こう考えると、僕にとって走ることは特別なことでも何でもなくて、日常生活とつながったものだったんでしょうね(笑)

陸上部の雰囲気は中学校の時と似ていて、和気あいあいとした楽しいものでしたが、女子や短距離を中心に強い人が何人かいて、全国レベルをこの時身近で感じました。勉強もできてスポーツもできる。世の中的には「文武両道」といわれますが、特別感なくこなす人ばかりでしたね。僕はといえば、高校時代に800mと1500mで北信越大会まで進みましたが、予選落ち。陸上競技で結果を残すことがなかなかできませんでした。

高校時代の思い出といえば、僕が一年生の頃に小松高校が13年振りに甲子園に出場したことです。石川県は小さい地域ながら星稜高校をはじめとして野球に力を入れる高校が何校もあり、進学を優先させる公立高校が甲子園に行くなんて簡単にできることじゃありません。それが県大会を勝ち抜いて甲子園の舞台に立っている!テレビに身近な人が写っている!!というのが不思議な感じでした。

試合は8回裏まで 5-0で勝っていたのに、9回表にまさかの5点を奪われ同点に。そして延長11回に4点を奪われて逆転負けしました。勝ちがスルスルと逃げていった試合で、力なくうなだれるピッチャーを見ていたら、なんだかいたたまれなくなりました。スポーツの厳しさはその時に垣間見た気がします。

 

大きな転機になった大学時代

ー大学は難関国立大の名古屋大学に進学されたんですよね。

夏の北信越大会が終わってから、周りの友達と同じように受験生になりました。受験生になってからは少し走ることも生活から離れるかなと思いきや、気分転換に走りに行ってましたね。そして、無事に第一志望の名古屋大学に合格。これはとても嬉しかったです。

大学生になっても、それまで同様に自然な成り行きで陸上部に入部しました。平凡に走り続けるんだろうなぁくらいの感覚でスタートしたのですが、そこで世界が一変。名古屋大学の陸上部は僕が思っていた世界とはまったく違っていて、5000m14分前半の選手が何人もいたんです。全日本大学駅伝に出場することが目標だったので、みんなとても意識が高くまさに「戦うチーム」でした。

僕はもともと中距離を専門にやっていたので、入学当初は5000mが17分台の選手。チームの中ではもちろん下の方でしたが、そこで金尾先生と出会い専門的な指導をしっかり受け、同期や先輩たちと切磋琢磨するようになったんです。それがとても大きかったですね。これまでとは違った陸上競技はきつくもあり、でもとても楽しかったです。

強い先輩や頼もしい同期に揉まれながら練習していましたが、大学3年生の頃に、そんな先輩たちと練習で競り合えるようになった瞬間がありました。たしか2000m×5のインターバル走でしたが、入学当初は競ることはもちろん、着いていくことすら難しかったメンバーと肩を並べて走れたんです。練習の一コマながら、いい緊張感の中でこなせましたし、自分もここまでできるようになったんだなぁと、しみじみ感じました。

おかげさまで大学時代は記録が右肩上がり。17分台の選手だったので伸び代しかなく、大学院も含めた6年間は毎年自己ベストを更新し続けました。ただ、5000mは14分08秒がベストだったので、「13分台の景色をみてみたいなぁ」とは思っていて、それは社会人になった時へ持ち越しになりましたね。

ー大学生の頃の思い出で印象的なものはなんですか?

チームの目標だった全日本大学駅伝には大学3年生の時に一度だけ出場することができました。チームの目標をみんなで達成して、みんなで大喜びしました。このチームで頑張れてよかった!仲間と出会えてよかった!と本当に感動した出来事です。

あとは、性格的に負けず嫌いなので走り始めたら、体よりも気持ちが先に反応してました。大学4年の時の日本インカレで5000mに出場したのですが、最初の1000mを突っ込んで先頭をひた走りました。結局中央大の上野くん(現立教大学監督)に捕まってしまいましたが、高校時代までの実績では到底叶わないメンバーを相手に思い切った走りができたは、自分の中で大きな変化だったと思います。これもいい思い出です(笑)

よく関東の大学や強豪大学と比較されて「箱根駅伝についてどう思いますか?」とコメントを求められたのですが、そもそも大学を選ぶ時点で箱根駅伝どころか、陸上競技をあそこまで本格的にやれる環境だとは思っていなかったので、箱根駅伝に憧れたり羨んだりするようなことはなかったです。それよりも、単純に記録が伸びていくことが苦しくもあり、楽しくもあり、純粋にそれが一番でしたね。

 

市民ランナーとしてのスタート

ー実業団に進もうとは思わなかったんですか?

走ることを仕事にすることは考えていなかったので、普通に就職しました。ただ、社会人になったらマラソンに挑戦してみないなとは思っていて、市民ランナーとして走り続けるつもりではいました。

僕が就職した京セラはもともと男子の実業団チームもあったのですが、当時すでにチームは実業団から撤退。ただ、女子の陸上部は実業団登録していましたし、福利厚生の一環として男子陸上部は同好会として残っていたので、走ることに対して寛容な環境だったと思います。

ー普段はどんな練習をしているんですか?

陸上部の練習がある時はみんなで集まってペース走をしたり、インターバル走をしたりします。ペースは時期によって違うのですが、あまり欲張ってガツガツやろうとはしていません。ランナー生活も長くなったので、だいたいこれくらいの練習ができていたら、これくらいのタイムは出るだろうなというのは分かってきました。目標タイムに合わせて練習をするというよりも、やれた練習を自分で振り返ってみて、これくらいの記録になりそうだなと思いながらレースに望んでます。ただ、走り始めたら負けずモードに突入するのは相変わらずですが、きっとそれでバランスが取れてるんでしょうね。「冷静に分析する自分」と「思うままに走る自分」が共存している感じです。

それ以外の平日はジョグ中心です。仕事が終わって普通に帰ると自宅にはだいたい20時ごろにつくので、そこから1時間ほど子供と遊び、子供が寝てから60〜90分くらい走りに行きます。その後に夕飯を食べて就寝という生活ですね。

休日はよくレースにでます。家族も走ることを純粋に応援してくれてますし、旅行がてら県外の大会に出ることもありますね。結婚したり、子供ができたりすると走る時間がなくなると言われますが、僕はそれ以上に「楽しみが増えた」と思ってます。社会人に持ち越した宿題(笑)だった5000m13分台は家族が見ている前で達成しました。社会人になって思い出に残るレースは本当にたくさんあるのですが、このレースが一番ですね。ラスト50mくらいで記録が出せることを確信してホッとしたのを覚えてます。ようやくでたなぁと感慨深かったです。

 

僕はかけっこが好き

ー今の走るモチベーションって何ですか?

モチベーションて実はよくわかりません(苦笑)あえて言うなら緊張感から解放されるレースのあととか、きつい練習が終わった後の開放感とか、そんな感じですかね。でも、ちょっと違う気もします。

結局、早い人と走ってみたい、自分がどこまでできるか挑戦したいっていう気持ちがあってそれが走り続けてきた原動力なのかもしれませんね。正直ここまで記録が伸びるとは思っていなかったので、今は夢のような世界にいる心地がします。

ーこれまで怪我はなかったんですが?

小さな痛みや怪我はもちろんありましたが、長い期間休まなくちゃいけないような怪我はないです。高校生まではのびのびとやれたこと、大学生の時は金尾先生から余裕を持ってやるように言われてきたこと、今は自分のペースで練習できていることが大きいのかなと思ってます。そして何より、丈夫な体に産んでくれた両親には本当に感謝です。こればっかりは自分ではどうしようもできないので。

実は最近足に痛みが出ることが増えてきました。走れてはいるものの、年齢的にも不安はあります。もし大きな怪我をしてしまったら今のステージでは走れなくなるような気がするので。ただ、父は根っからのランナーなので、色なんところが痛いとよく言ってますが、それでも結局走ってます。その血は争えないだろうなと思ってるので、僕もいつまでも走り続けていくんでしょうね。

ー中村さんにとって走ることって何ですか?

僕はこれまでずっと「かけっこ」をしてきた気がするんですよね。どちらが速いか競走することをかけっこだとすると、今までやってきた陸上競技が腑に落ちるんです。相手が速ければすごいと思うし、速い相手に勝てたら嬉しいって思う。今はそれに”自分が速く走れたら家族が喜んでくれる”ってのがついてます。

だから僕がやってきたのは、勝ち負けを競う「競争」ではなく、走ってお互いを認めたり讃えたりする「競走」なんでしょうね。走ることは僕にとって日課みたいなものなので、なんとなくそうこうしているうちに歳を重ねていく気がしてます。それもまた楽しみですね。

 

編集後記

どこまで深掘りしても自然体

インタビューを通して感じたことはこの一言に尽きます。見栄も張らなければ人の悪口も言わない。そんな「たかひろくん」だからこそ、平凡に伸び続けて非凡な結果を残してきたんでしょうね。
(僕にとっては同郷のライバルであり仲間なので、最後は親しみと敬意を込めて「たかひろくん」と呼ばせてもらいました)

一人一人のランナーにストーリーあり。肩肘張らないストーリーはとても心地よかったです。伸び盛りの36歳はこれからも静かにいろんな輝きをみせてくれることでしょう。

(文責:宮川浩太)

September 14, 2019/コラム/